男一人暮らしには料理番組がうれしい
一人暮らしをしているが、家で自炊はしない。
そのために自宅にはガスコンロが無いし、冷蔵庫の中にも食料は殆ど無くて、飲み物と緊急時の冷凍食品と菓子類くらいだ。
20代は自炊をしていたが止めてしまった。
食べ物を腐らせてしまうし、結果、月の食費も上がるからだ。
特に現代の男たちは、働き方が不規則かつ決まった時間に食事を摂ることがかなり難しいので、そうなるとどうしても外食が多くなってしまう。
今や中食に代表される出来立て弁当や、惣菜を買ってきて夕食にするのは当たり前。
コンビニの揚げ物は立派なおかずとして成立する。
僕もやはりそうだが、極力は外食せずに手作り弁当を安く買って、健康にも気を使いカット野菜を時折一緒に食べたりする。
運動も週に5回はするので体調は極めては良好、健康診断の数字は毎回良い。
とはいえ、その味はどうかと言えば、誰かがその場で料理してくれる食事には到底かなわない。
一人で摂る食事は、単なる栄養補給と成り下がってしまう。
外で一人で食事をするのがあまり好きでは無いので、大体は家で弁当を食べたりするのだが、そんな時は料理番組が非常に嬉しい。
自分で作ることは出来ない出来立ての料理を見ながら食べると、実際に食べているものが味気なくても、何だか美味しく感じられ、幸福感で満たされるから不思議だ。
なかでも、英国人シェフであるジェイミー・オリバー氏の番組を好んで良く観ていた。
誰にでも安く手に入る食材を、簡単かつシンプルに料理する様子は観ていて参考になるだけでなく、ジェイミー・オリバー氏が食べる様子は僕の胃袋を刺激し、食欲不振も改善してしまうほどだ。
番組では一般人の自宅に突撃取材し、スーパーで安く買った食材を小分けにする方法や、冷凍方法、解凍して実際に料理する手順や、更に余った食材をスパイスやソースへ活用したりと、氏の料理に対する情熱が隅々まで感じられる。
イギリスの料理はまずいというのが世界の常識となっていたが、その常識を覆す大きな役割を担ってもいる。
日本の料理番組では、やはりMOCO'Sキッチンを良く観る。
一般人からアンケートを募って、その要望をもとに料理を作っていくという、いたってシンプルな内容だが、もこみち氏のまさに "男の料理" 感が出ていて、これも爆発的に食欲をそそる。
わずか数分のうちに料理を完成させ(番組の構成もあるだろうが)、そのレシピの簡単さから自分にも作れるような気がしてしまう。
面倒なのでやらないが、毎日10分くらいこの番組を観て、実際に少しでも料理をしてみれば料理教室なんか通わなくても多少腕は上達するだろう。
料理を作らなくても、ただひたすら食べるだけの番組も、もちろん男一人暮らしにはうれしい。
主人公のいのかしらゴロー演じる松重豊氏がまさに適役で、食べるシーンから一秒たりとも目が離せない。
作品の中では、焼肉を食べる回が最も好きなのだが、このシーンだけで白飯を何杯か食べられそうなくらい臨場感がある。
食べ物と動物モノは視聴率が取れる番組らしいが、こうして見るとその理由はなんとなくわかる。
三大欲求の食欲をガンガン刺激するからだろう。
3分クッキングがいまだに無くならない理由も、きっとそこにあるはず。
年々、料理番組の完成度と見た目の解像度というか、クリアな映像のクオリティがどんどん上がっているので、もしかすると、ずっと先の未来は何も食べなくても映像だけで胃袋も心も満たしてくれる時代が到来するのかもしれない。
実際、僕は現実的には味気ない弁当を食べていても、上記の番組で心が満たされている。
グローバル企業の欧米マネジメント層のヒューマンスキルはトップレベルだ
僕は人の上に立ったことが無いのでピンとこないが、利益の上がらない組織で給料以上に働いてもらうためには、やはりそのマネジメント層には部下の士気を高める、モチベーションの向上といったことも当然求められる。
例えば利益向上とはいわなくても、マネジメント層が望んでいる会社の方向に社員に歩んでもらうためには、その具体的な手法を実行する必要もあるだろう。
過去に累積赤字の問題を抱える外資系企業で契約社員として働いたことがあって、いわゆる欧米系のマネジメント層と接する機会があった。
そのとき僕は末端の契約社員として勤務はしていたものの、会社そのものはグローバル企業として世界各地に拠点を持っており、毎年、各国拠点企業との交流のもかねて東南アジアのどこかの国でスポーツ大会が開催されていた。
数年前にタイで開催されたときに僕も参加し、見事日本代表として僕の会社のメンバーは優勝を勝ち取ったのだが、その日の夜の祝勝会では、大会の話も早々に、実際のところはジェントルメン達のカクテルパーティの様相を帯びていた。
立食パーティ形式で一つのテーブルに集まるようにしてアメリカ人社長と欧米系幹部を取り囲み、日本人社員も含めそこでは当たり前のように流ちょうな英語が飛び交っていた。
僕は英語が話せないので彼等が何を言っているのか全く分からなかったし、その空気に飲まれて輪の中に入っていくことも出来ず、まるで仲間外れのような形になってしまっていた。
だからといってその場を離れて別の場所へいくのもそれはそれで失礼に当たるだろうし、とにかく、どうふるまって良いのか分からずに途方に暮れていた。
すると、僕の様子に気付いた日本企業のアメリカ人社長は、すっと、自分が立っている場所から少し後退し、僕がそのテーブルに入るための"席"を空けてくれた。
それだけではなく、僕の背中にそっと手を当て、そうして自然に僕が輪の中に入っていくようにさりげなくエスコートしたのだ。
無論、その間テーブルで行われている会話は中断されることも無く、空気も全く壊れなかった。
アメリカ人社長は言葉にこそしなかったが
「君も入って来いよ」
と、その動作は間違いなく僕にそう語りかけていた。
その一連の動作があまりに自然で、嫌らしくなく、それどころ非常に好感が持てることだったため、しばらくその事ばかりを考えていたくらいだ。
海外を転々としている国際肌の同僚にその時の話をすると、
「彼等は徹底してコーチングや部下のモチベーションを上げるための、ヒューマンスキルの訓練を受けている」
とこたえた。
考えてみれば当時、その会社で働いている際に欧米系のマネジメント層が我々末端従業員の前で何かしらの話をする時は、その内容がどんなにネガティブなことであっても決して暗く話すことは無く、必ず明るい側面からタッチするようにしていたし、ボディランゲージや表情からもあざとさは一切感じられず
「...色々問題はあり決して簡単ではないが、我々はあなた方のために最善を尽くしているし、状況はきっと良くなる」
そういうメッセージを力強く、ゆっくりと、よどみなく発信してきた。
そのメッセージは全体を包み、我々の心理面に大きな影響を与えたものだ。
だが結局、勤めていた外資系企業は日本での経営が立ち行かなくなり、その部門丸ごとを売却するか、完全撤退するかの選択を迫られることになり、状況を社員に公表する前に外部の情報機関にそれがもれてしまって、後手後手という形で社員へ応対するような形となった。
そこでも徹底して、マネジメント層はよどみなく、物事の明るい側面から話すようにしているのが強く感じられたし、
「皆さんの雇用は完全に守られる、私は皆さんと共にある」
そう話していたと記憶しているが、数日もすると、そのグローバル企業のギリシャ撤退
を引き受けた倒産請負人のような欧米人が日本を訪れ、高給取りからバサバサと首を切っていった。
笑いながら握手をし、テーブルの下では足の蹴り合い、踏みあい、というのが国と国のネゴシエーション、いわゆる外交の現場らしいが、それを彷彿とさせるような出来事だった。
雇用を守ると言いながら首を切っていくのだ、笑顔で。
こういう時、グローバル企業に対する社員の行動には国民性が出るもので、もうどこか忘れたが、恐らくスペインだったかもしれないが、約束を平気で反故にする企業のマネジメント層に対してデモ行動を起こしたようだ。
彼等は話し方や立ち振る舞いに惑わされることなく、実を取る国民性なのだろう。
僕の見立てでは、アジアでは中国がその様相が強い、中国人も恐らくは黙っていないだろう。
日本人の国民性を見抜いて上記のようなマネジメント手法を取り入れているのかどうかそれは分からないが、何だか植民地支配当時の経験が、グローバル企業の各国拠点のマネジメントシステムにそのまま生かされているような気がしてならない。
とはいえ彼等の、話し方や立ち振る舞いには舌を巻く。
いやらしさや下心を一切感じさせない、「本心」と思わせる能力にとにかく非常に長けているのだ。
世界の三大自己啓発と言われる著書も、全て欧米からという点を考えても、彼等が人間に対して徹底的に研究し尽していることの表れだろう。
ヒューマンスキルはトップレベルだ、非常によく訓練されている。
高野秀行氏が面白い
辺境・探検・ノンフィクション 作家 高野秀行オフィシャルサイト
「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それを面白おかしく書く」
僕がミャンマーへ渡航する際、高野氏の著書である "ミャンマーの柳生一族" を読んでから下準備をした。
10年以上前に書かれたもので、当時と今とではミャンマーもその姿を変えているが、普遍的なことや慣習など面白く記され、また、同国が幾つかの少数民族がありその問題を今もなお抱えながら東南アジア最後のフロンティアとして躍動している、そういった様子が垣間見え、今読んでも面白い。
とはいえ、高野氏が初めてミャンマーを訪れたのは本を記すよりもずっと前で、危ない橋を渡り、危険な場所へ体当たり取材をし、それを面白おかしく記すのが非常にうまくて読ませる。
名の通った作家のくだらない旅行記よりもずっと読み応えがある。
高野氏の凄いところは、ミャンマーは勿論の事、訪れる国の事を徹底的に調べ上げ、それを僕のような知識の無いものでもその世界に引き込んでしまうところ。
比較的新しい著書としては、今では多くの人の目に触れることとなった "ソマリランド" を訪れたと手記が抜群に面白い。
いつまでも若い作家だと思っていたら、高野氏ももう50代だ。
こうした、旅に関する手記などで有名な作家は僕は沢木耕太郎氏くらいしか思いつかなかったが、個人的には高野氏の方が好きだ。
沢木耕太郎氏は銀行に就職が決まったものの、出社初日に退社を申し出たという逸話の持ち主で変わり種なのは間違いないが、一方の高野氏は、早稲田大学を卒業しながら世の中でいうところのアウトサイダーとして生きる道を選んだ点では特異な存在。
独特の書き方は何ともユーモラスであり、作家というのは大なり小なり脚色を行っているものだと思っていたが、そういうことはしていないらしい。
「面白おかしく書く」のと「話を盛って脚色する」のはちがうんだって。
— 高野秀行 (@daruma1021) 2017年8月7日
最近は南米に滞在していたようで、50代を過ぎても活動的。(当たり前だろうが)
新聞やテレビのニュースは時に偏っていたり分かりづらい内容と書き方ばかりなので、それを読むのも時代の流れを追う意味では悪くはないのだろうけど、他人のブログやこうした高野氏のような一線で動いている人の文字面を追っていた方が新鮮な情報を得ることが出来るし、よっぽど有意義なんでないか、と最近感じる。
すしざんまい社長の話を一刀両断した時も、高野氏には注目が集まった。
映画ナイトクローラーは新しい形のサクセスストーリー
事件や事故現場に急行して捉えた映像をテレビ局に売る報道パパラッチとなった男が、刺激的な映像を求めるあまりに常軌を逸していく。
ジェイクギレンホールの絶妙な演技が光る内容だが、毎日のようにこの映画ばかり見ている。
観ていてすぐに感じたのは、ストーリーにはないが、ジェイクギレンホール演じる主人公のルー・ブルームがサイコパスの片りんをみせていること。
表向きは魅力的、良心と恐怖心の欠如、サイコパスの分かり易い特徴としてはそういったものが挙げられるが、ジェイクギレンホールが見事に演技だけで体現しているし、
時折見せるゾッとするような表情と、対面する相手に対して親しみを込めた笑顔を見せるそのギャップがまた絶妙。
ネット上でも本作品がサイコパスの内容を帯びていることを前提に語られている感想が多い。
金もコネも学歴すらない一人の男が、ナイトクローラー(パパラッチというらしい)としてのし上がっていく様は、資本主義の最下層に生きる者が、通常の方法で成功をつかみ取ることがいかに難しいことかを描き、常軌を逸した報道スタイルや過激な内容を好む視聴者をも巻き込み、経済社会と密接に絡み合った人々の過剰なまでの刺激思考についての問題提起も帯びた作品となっている。
再生回数を稼ぐために人道的価値観や倫理観をかなぐり捨て、常に刺激的な行動に出るYouTuberと共通する点もある。
この映画の細かな見どころとしては、主人公が筋金入りの人間嫌いで、部屋で一日中テレビやネットを見て過ごし、テレビを前に一人笑うシーン。
僕は先日、人間は社会的な生き物で孤独ではいられないはずだ、ということを書いたが
世の中には孤独を好む人間も実は割といることを丁寧に描いていてそういった面でも面白い。
そんな孤独な男が、ビジネスとして取り組むパパラッチ業においてスクープを取り逃した部下を前に、
「いいか、研究によれば協力が不可欠な組織では、魚の群れも、ホッケー・チームもそう、成功に至る一番のカギはコミュニケーションなんだ」
と説く姿も、孤独を好む人間でもコミュニケーションが重要であることは認識しており、彼がただの人間嫌いではなく、また決してバカではない、むしろ頭の切れる人物であることも感じさせる。
「恐怖(FEAR)とは何かわかるか?」
「本物に見える偽の証拠 False Evidence of Appearing Real - (F.E.A.R) 」
誰が言ったのか分からないが、格言めいた言葉を引用するシーンもあり、恐怖心が欠如しているサイコパスが言うのもまた皮肉だ。
セックスシーンはないものの、倍近い年上のやり手プロデューサー女性を口説くのでなく、視聴率と引き換えに「友人として寝る」ことを交渉するシーンも面白い。
当然女性は反発するが、「それは違う、友達は自分に対する贈り物だろ」と、良く分からない持論を展開し、笑顔で懐柔する。
この映画の結末は万人に受け容れられるものでは無い、とはいえ、新しい形のサクセスストーリーと位置づけられ観る者を全く新しい感覚に陥れる良作といえる。
かつて世界経済の頂点にあったアメリカ合衆国では、「貧しくても努力すれば成功できる」という、いわゆるアメリカンドリームと呼ばれる価値観が根差し、それが貧富の差を抱える同国が推進する原動力にもつながっていたことは間違いない。
だが、中産階級は没落し、経済は衰退。
強いアメリカを取り戻すと約束して誕生したトランプ大統領の背景にある、復活を信じる、今は貧しくなってしまったアメリカ白人の悲哀にも通じる。
この映画はまさしく、没落した現代のアメリカ合衆国の、アメリカンドリームを描いたものであり、風刺画的な意味合いも持つと個人的には思う。
孤独と自信の欠如がもたらす現代の病
僕は孤独に弱い、それは30代を過ぎてからようやく気付くことができた。
人間は社会的な生き物だから、「自分は必要とされていない」と感じ、内にこもってしまうと、何らかの病気になってしまう。
僕の友人が都心で働いていたとき、仕事のストレスが原因で自宅のドアに手をかけるだけで手が震え出し、心も動悸とは違う、何やらざわついた感覚に襲われ、職場に行くことが出来なくなってしまったという。
心療内科を受診し、適応障害と診断された友人は、そのあとカウンセリングを受けた。
「その病院には一回しか行っていないが、すぐに治った」
と話し、適応障害となってしまった理由は、誰にも心の内を話すことが出来なかったことを挙げた。
つまり孤独で、話し相手がいなかったのだ。
人間の頭をよぎる、不安、恐怖、心配事、そして罪悪感といった負の感情は、想像以上にエネルギーを消費し、我々を疲弊させる。
今日、現代人が疲れているのはそういった負の感情にエネルギーを使ってしまい、その他のこと、すなわち仕事や人生を愉しむ分の力が残されていないためである。
自分の心の内を誰かに話すと、何も解決しなくても、なんだか心がスッキリして晴れやかな気分に包まれる、そんな感覚を味わったことは誰でもあるはずだ。
あれは、負の感情を解放する役割を果たしていて、スッキリした分だけ気持ちが楽になるのは、それだけ、膨大なエネルギーを使用しているからだ。
アメリカの映画で、教会で自らの犯した罪を告白するシーンがあるが、あの懺悔の持つ意味も同じだ。
孤独になってはいけない、そして同様に注視すべきは、自信の欠如だ。
自信がないと、窮地を打開するためのエネルギーとアイデアを実行することが出来ないし、ここ一番の勝負で勝つことも難しくなる。
自信が欠如すると、仕事でも業績を上げることは難しくなるし、恋愛については愛する人にプロポーズも出来ない。
自信はなくてもいい
岡本太郎はそう言ったが、自信の欠如から人生に敗れてしまう人が多いのも現実で、やっかいなのは、何らかの実績を積んだから、それが自信に繋がるとは限らない、ということだ。
自信が欲しいなら、何か実績を上げることも大事かもしれないが、極論すれば自信をつける練習、自信たっぷりに見える訓練を行う必要がある。
いずれにしろ、孤独にもならず、自分への自信があるならば人生に絶望することはない。
北朝鮮に左右される資産
昨年からシャープ株を保有していたが、北朝鮮のミサイル情勢から値動きが下落傾向にあったため、泣く泣く手放した。
シャープには友人も働いており、ホンハイ傘下になっても特別な思い入れから売却せずに保有していた。
しかし北朝鮮情勢には抵抗できず、資産の目減りに耐えられるはずもなかった。
大体185円くらいで購入たのでプラスは出ているが、500円くらいまで値をつけた点を考えると売り時は逃している。
株式投資では、しきり出口戦略の重要性について説かれる。
元々は軍事用語が転じて現在のように使用されているが、僕自身、その出口戦略を練らずに北朝鮮の軍事行動に資産を左右されてしまっているのだから皮肉というほかない。
多くの株が下落や乏しい値動きの一方で、上昇著しい株もある。
考えてみれば、核兵器や日本も無関係ではすまされない有事の今、それ金儲けに繋がるというのが凄い。
とはいえ僕は今年の頭に起きた金正男暗殺の時に石川製作所株に手をだし、20万円くらいの損失を出した。
他にも法的整理となってしまった、タカタ株でも損失を出し、シャープのプラスと相殺しても30万円以上の損失となっている。
出口戦略もへったくれもなく、株式投資などはなからすべきではなかった、という状況だ。
とはいえプロのトレーダーでも、あらかじめ損失を想定し、逆算してどこまでリスクをとれるか含め投資スタイルを組み立てるようだ。
損失が出るのは前提らしい。
プロでさえそうなのだから僕のような素人はとても太刀打ち出来ない。
ニッポン放送株で日本中を騒がせた村上良彰氏の著書、生涯投資家では、
「株は上がり始めたら買え、下がり始めたら売れ、という父の教えを守っている」
と記されていた。
人間は過去には戻ることが出来るのではないか
タイムマシンと未来に関する人類の未知への挑戦は、今も昔も人々にロマンを感じさせる。
現実的には、未来に行った人間もいなければ、過去に戻った人間もまだ存在しない。
僕が過去に戻れる、と表現したのは、物理的なものとしてではなく、精神的な部分、人間の内面の部分を指している。
先日、仕事中にラジオを流していると、たまたまそこから懐かしいメロディーが流れてきた。
"どうしてそんなに難しく考えて..."
と、そう唄うのはカナダ人の女性シンガーで、彼女が奏でるラブソングは当時、
世界中の若者を魅了し、そしてその曲を前に多くのカップルが愛を語り合った。
もちろん僕もだ。
女性シンガーの曲のメロディーがほんの少し流れただけで、心の中にある "何か" が反応し、僕の精神はあっという間に当時の心境を呼び戻し、その世界に引き込まれてしまった。
当時悩んでいたことや付き合っていた恋人、人生観や仕事について、そして今はもう会うことはないその時の友人たち。
記憶の片隅に押しやられ、むしろ忘れかけていたものが次々と頭を駆け巡り、美しい面ばかり映し出されるから、それらのものは僕の胸を埋め尽くし、圧倒し、ついには破裂しそうになってしまう。
あの時に受け止めていた感覚を、精神が成熟した今の自分が感じるのは本来おかしいことで、それを自覚してもいるから戸惑ってしまう。
9月で多少肌寒くなってきたから、ということもあるのだろうか。
だが、こういう感覚はきっと僕だけではなく、大勢の人間が感じていることだろう。
誰もがその "一瞬の出来事" をひた隠し、またすぐに現実へと戻っていく。
こうして考えてみると、この不思議な感覚はまさに "過去に戻った" という表現が最も近いと思う。
とはいえ、人間の脳、というか、心の凄いところは、メロディーに限らず、特定の映画を観たとき、場所を訪れたとき、あるいは覚えのある香りが漂い始めたとき...何が過去に戻るスイッチになるのかは分からないが、それらのスイッチに敏感に反応するのだ。
スイッチはある、必ずある。
それがふとした拍子に、または幾つかの偶然が重なってスイッチが押されると、一瞬で過去に戻ってしまう。
僕の場合は意識して押そうとすることはあまりなくて、上述のようにラジオから突然メロディーが流れてきて反応した、ということが多いように思う。
いずれにしろ、この感覚は決して嫌いではない。
年齢を重ねるとともに、同じ感覚を味わうことは出来なくなるし、人類が過去や未来に旅行する日が訪れるのは、まだだいぶ先だろうから。