血液型の性格占いはあてになるのだろうか
僕の血液型はA型だ。
一般的な日本人のイメージとしては、A型は細かくて几帳面で真面目。
そして神経質だ。
だがこれは僕の中では割りとあてにならない。
なぜならば、血液型を聞かれて、「あ~几帳面なんですね」と言われるのが嫌で、長いことO型であると申告していたが、そう答えても「やっぱりね」と言われ疑われることは無かった。
性格を見て血液型を言うこともあるが、血液型を聞いてから性格をあてはめることもあり、人はずいぶんいい加減なものだと実感したのだ。
血液型自分の教科書という本が今から10年くらい前に大ヒットし、今や常識のようなものにもなっているが、元々、ABO式の血液型占いが大ブームを起こしたのは1970年代。
その頃を境に日本人には血液型神話が根付いているようだが、そもそも、血液型は細胞の表面についている糖の分子構造によって決まる。
それを決めるのはたった一つの遺伝子だが、人間は約二万の遺伝子からできていて、その組み合わせともなると無限。
そこに環境の要因がかかわってくるなかで、性格というものが形成される。
現に、A型なのに忘れっぽくてめちゃめちゃな女の人がいて、彼女はよくO型に間違えられる。
心理学会の研究発表でも、血液型による性格上の特徴には根拠がないという見方が常識なようだ。
去年、遺伝における著書が日本中で論争を巻き起こした。
努力は遺伝に勝てない、といった、日本人の努力を否定するその内容は賛否両論あるものの、きちんとした裏付けのある資料をもとにかかれた本書は非常に説得力がある。
血液型の話は一切、ない。
昔は、ドラマなどでも自分の子供が実の子かを調べるために血液型を調べるシーンなども描かれていたが、それも今や遺伝子を調べるのが常識だ。
鬱やその他の精神疾患にしても、遺伝する傾向があるとも発表されていて、こうなるとますます血液型はあてにならない。
とはいえいまだに血液型神話が根付いているのも事実なので、そこを逆手にとり、自らを印象操作するくらいがちょうどよいかも知れない。
神経質に見られたくないのならO型と申告し、天才に見られたいのならば、AB型やB型と申告する、といった風に。
それにしても、A型は非常に人気がない。
誰もがみな個性的に見られたいのと、皆と一緒では嫌だという心理の表れてなのだろう。
昼間からニタついて歩いている人間は大体頭がおかしい
勤め先の会社のビル周辺をうろついている変人、おっさんがいる。
何名かおり、それぞれパターンが異なっているものの、大抵はニタついて歩いている。
僕は話しかけられることは殆ど無いのだが、同僚の女性社員は割と頻繁に話しかけられているようで大変らしい。
突然、前から歩いてきて、「セックスする?挿入する?」と質問されたり、仕事帰りには「おつかれー」と声をかけられることもあるようだ。
ビルの周りをうろついている変人の一人が、朝から「おはようございます」と女性社員ひとりひとりに挨拶していたようで、たちの悪いことに、見た目ですぐには変人と分からないために挨拶を返す女性もいたようで、そうすると嬉しそうにするのだという。
中には気持ちが悪いために挨拶を無視した女性社員もいて、「おい、あいさつしろよ!」とすごまれたらしく、これらの人間が昼間からビルの周辺を一般市民のふりをしてうろつくものだから不安なことも多い。
最近では常駐の警備員も増えて、そのような変人は減ったが、勤め先のビルに限った話ではなく、平日の、ど真昼間から一人で歩きながらニタついている人間の多くは、大体頭がおかしいと見て良い。
僕自身、平日の休日の日に外でマラソンをしているとよくそういう人間に出くわすし、あるときは突然後ろから話しかけられて驚き、振り向いてみると、そこにいたのはわき毛をガンガン生やし、サングラスにタンクトップ姿の年増の女性だった、ということもある。
社会生活を送ることがちゃんと出来ているのか疑問なのだが、彼等が目立ってしまう理由は僕が住んでいる場所にもよると思われる。
いわゆる地方都市に住んでいる僕は、人口はそこそこであるものの東京含めた都心の人口密度に比較すると人間の数は少ないし、繁華街でもそれほど人ごみが出来ている訳ではないから、どうしても、精神的な疾患がある人や変人が目立ってしまう。
前にツイッターで、
「地方では働かずに昼間っからビール片手にウロウロしているニートは何もしなくても目立つために職務質問を受けやすいが、これが東京の新宿とかだと、全然違和感が無い。だから実は人ごみに紛れやすいという利点がある」
といった記述を読んだが、まさにそれだ。
都心の方に行くと幾らでもおかしな人間はいるわけで、目立って浮いてしまい、社会生活が送りにくくなるといったリスクは低いのだろう。
地方都市になるとまだ村社会や繋がり重視の一面が根強く残っているところもあるので、そこからはじき出されてしまうと辛い。
変人扱いされる、ということについては、どこからどこまでが普通なのかという線引きは難しいところがある。
例えば僕はプレッシャーに弱いタイプで、過度の期待や、今の生活スタイルが劇的に変わったりすることに対してストレスを感じやすく、最近もその手の重圧に悩まされ思考がうまく働かなくなり疲弊してしまっていた。
実際には、取りこし苦労や自分でありもしない恐怖を作り出しそれにおびえているに過ぎないのだが、こうした傾向は、悪い意味で真面目な性格が影響している。
だから努めて、不真面目、ゆるく生きる、といったことを実践するようにしているのだが、例えばこれが、平日の昼間からニコニコしながらマラソンをしてしまったりすると、もう立派に上記の変人の仲間入りになるわけで。
あまりニュースにはならないが、危険ドラッグのやり過ぎなのか、それとも単に常軌を逸しているのかあるいはその両方なのか知らないが、突然バスの中で裸になって踊りだす女性が近頃はいるようだ。
僕の住む土地でそのようなことは大変珍しい。
だが気持ちはわかる。
あまりにプレッシャーがかかりすぎると、スクランブル交差点で信号待ちをしている時でも裸になって踊りだして車につっ込んでしまいたい衝動にかられるからだ。
一種の現実逃避なのだろう。
いずれにしろ、僕の住む土地では、平日のド真昼間からニタついて歩いている人間は大抵、頭がおかしい人間だ。
元気がないときはうんこ漢字ドリルを読むと良い
話題のうんこ漢字ドリル。
ニュースやテレビで見聞きしてはいたものの、実際に読んだことはなかった。
仕事上、ホームセンターへ買い出しに行った際に、なぜかうんこ漢字ドリルがあり、思わず手にとって読みいってしまった。
単純におもしろい、大人が読んでも笑える。
例えば一年生用。
このうんこが一番大きい
うんこを一つもって出かけよう
うんこにえんぴつを一本つきさした
四角いうんこなんてめずらしい
おもいうんこを四人でもちあげた
うんこを四つ集めましょう
五本のゆびでしっかりとうんこをにぎる
来月の五日にうんこの図かんがとどく
五つあったうんこが四つにへっている
この、しょうもなさが笑える。
ホームセンターで大人げなく笑いながら読んでいたため、変な目で見られてしまったくらいだ。
これが、六年生クラスになると内容もやや大人になる。
うんこもいいけれど、親孝行もしよう
何年もうんこをみせていないなんて親不孝だよ
うんこを片付けただけで、孝行な子供だと言ってくれた
一回一回のうんこを誠実に積み重ねてきた
あやまりながらうんこをするから、誠意が伝わらないんだ
エジプトで神秘的なうんこをみた
政治家がうんこをもらしたのを秘書のせいにしている
ドラム缶の中にすごい密度でうんこがつまっている
精密な機械にうんこがついてしまった
うんこの周りにありが密集している
描かれているイラストもなかなかにコミカルで、それもまた笑いを誘う。
しばらく元気がなかったのだが、気がつけばモヤモヤとしたものが晴れていた。
やはり笑いは大事だ。
考えてみれば、子供のときはうんことしっこで半日くらいは笑えたし、お腹がよじれるくらいに笑うことも多かったが、ある程度の年齢を過ぎてからは、殆んどそれも無くなった。
頭も固くなってしまったが、子供の頭の柔らかさや、吸収力の早さは素晴らしいものがあり可能性を感じさせる。
何より、このドリルの作者はやはり大人であり、3000以上もの例文を作り上げたのは凄い。
1週間近くホテルにこもり、いじめを連想させるようなワードや内容に注意も払ったらしい。
読んでみると分かるが、確かにポジティブな内容ばかりだ。
僕が知らぬ間に元気になったのも頷けるというもの。
恐らく作者は、このうんこ漢字ドリル空前の大ヒットで億単位の金額を稼いだはずだ。
だが、子供から大人まで明るい気持ちにさせる、希に見る良書だと思う。
セックスの時に名前は呼んではいけないらしい
ウーマンラッシュアワー村本だいすけ氏の番組で、50代の男のセックスってどうなのか!?
みたいな内容が放送されていて、20代の女が最近50いくつの男性と肉体関係を結んだ、と、自身のエピソードを披露し、その時に話題となったものだ。
「名前を呼ばれて、とても気持ち悪かった」
らしいが、そもそも50男のセックスなんて想像もつかないし、想像したくもない。
「ある程度の年齢になったらセックスも気をつけんと~」
的なコメントで村上氏は締めくくっていたが。
自分自身のセックスを考えてみると、名前を呼ぶことは確かにある。
女の方から「呼んで」ということもあるし、そうではないケースもある。
上述の20代の女が気持ち悪がル気持ちも分からなくはないが、世の中にはもっと凄まじいセックスだってあるわけで。
例えば、日本人男性が大好きな顔射という行為。
AV男優などが絶頂に達するごく一瞬のタイミングで女性器から肉棒をおもむろに引き抜き、「しパッ」という音とともにコンドームを取り外し、体液を女性に振りかけるあれです。
僕が19歳くらいの頃、周りの友人も僕もセックス経験が殆んどなく、AVを頼りに行為にふけるわけだが、とある友人は彼女との初めてのセックスの時に顔射しようとして逆鱗に触れ、そのままフラれてしまった。
AVの観すぎだと言われればそれまでだが、その行為を毛嫌いする女性は恐らく大方をしめているだろうし、名前を呼ぶなどはこれに比べればかわいいものだ。
それに、上にも記して分かるように、男性がオルガズムに達するほんの一瞬の隙をついて肉棒を引き抜き、しかもコンドームを取り外す、といった、殆んど神がかった職人芸はもちろんのこと、女性の顔出しといった協力が無ければ、顔射というのはとてもではないが実現しない。
これが、気持ち悪いということだ。
こうした、セックス時の独特の行為について、欧米人等は、男性が女性のお尻を叩く光景が良く見られると思う。
お尻を叩いたところで何も気持ち良くはないのだが、彼等からするとそれが妙に興奮するのだろう。
とはいえ、欧米人の夫を持つ知人女性の場合はそうではないらしいから全てではないはず。
もっとも実際に見ることはできないから真意は定かではないのだが。
他にもパイずりをねだったり、運転中に彼女の性器にバイブレーションを挿入して渋滞中に潮を吹かせてしまったとか、下らない内容ははいて捨てるほどあり、何度もいうが名前を呼ぶなんてのはかわいいものだ。
男性側からしても、女性が馬乗りになってきて驚いたりするケースもあるし、気持ち悪い行為はお互い様で、セックスというのはきっとそういうもの。
名前くらい呼ばせてくださいよ。
週刊誌やベストセラーで世相をつかむ
週刊誌はスクープを連発して話題になっていますが、そのスクープ記事にしても、芸能人や政治家の不倫騒動だったり、野球選手の賭博問題であったり、有名タレントの独立騒動だったりと、愚にもつかないものが圧倒的に多い。
どうしてそうなるかというと、大衆の関心は他人の不幸を見聞きすることにあり、心のなかは「ねたみ、ひがみ、やっかみ」に満ちているからではないでしょうか。
昔は「KY(空気が読めない)」、いまは「忖度(そんたく)」という言葉が流行っています。
日本人は和を重んじるから、周りの人の顔色をうかがうように空気を読むのがある意味礼儀であり、昔からのしきたりなのでしょう。
ベストセラーのように流行りものがしょっちゅう現れては消えていくという現象がよく起こるのも、周りの空気が気になって仕方がないからだと思います。
-丹羽宇一郎-
子供は、自分が満ち足りていないモノを頻繁に口にする傾向にあるようで、例えばそれが "親" であれば、父親と母親の事をよく口にするし、友人の話ばかりであれば友情を求めている、ということを意味するかもしれない。
ベストセラーや週刊誌もその傾向がある。
上記のように空気が読めない、という点に関しては空気が読めない自分を正当化したいのか、あるいは空気が読めるようになりたいのか、いずれにしろ人の目線が気になるということは間違いない。
僕は週刊誌やベストセラーといった類のモノは読まないが、世相を掴む意味ではそのようなジャンルにも手を伸ばした方が良いだろう。
ダイエーを一代であそこまで築き上げた中内功氏は、各新聞の広告欄を好んで読んだそうで、どの業界に金があり何が儲かっているのか、大衆は何を求めているのか、そういった事を読み取るために広告欄に注視していたようだ。
普通、広告欄をそのようには読まない。
良く、「新聞を逆から読め」という人がいたが、その手の発言をする人は何らかの分野で業績を上げた人間であり、逆から読め、という意味は、例えば中内氏のような読み方をしろ、ということなのだろう。
嫌われる勇気がベストセラーになったが、人の目を気にしない、自分らしくあることの重要さを説くようで、実のところは、「人の目線が気になる」日本人向けに書かれた商品という事になる。
体臭ビジネスもそうだ、人の目線が気になる日本人ならでは。
今や常識となった、マンダム社のデオドラントボディペーパーやフェイスペーパーにしてもそうで、マンダム社が新しいマーケットを創出すべく訪日外国人にサンプルを無料配布したものの、日本人ほどの感触が得られなかった映像がテレビで流れていた。
日本人は清潔で、人の目を気にする国民性、だからこそ売れる商品もあるということなのだろう。
いずれにしろ、世相を掴むには週刊誌とベストセラーに目を配り、日本人の国民性に目を向ければ間違いないはずだ。
下手なマーケティング本を読むよりよっぽどいい。
パン食い競走で勝とうとせず、新しい道を探す
村上龍氏がワタミの渡辺美樹氏とカンブリア宮殿で対談したときのことが話題となった事があり、その時の状況について村上氏も自身の動画であるRVR龍言飛語で語っている。
渡辺美樹氏のことよりも、村上龍氏が語った、過去に自身が読んだ一コマ漫画のパン食い競争の話が頭に残った。
(以下テキスト調で記しました)
ちっちゃいころ見たんだけど。(一コマ漫画を)
あの、パン食い競争のスタートなんだよ。(向こうにパンがあって)
で、ひとり、バターを持っている奴がいるんだよ。
俺その漫画が凄い好きで、どういうことかっていうと、そいつ、パン食い競争に勝とうと思ってないの。
競争に。
あそこにあるパンを、より美味しく食べようと思ってるのよ。
できたら。
僕自身もそういうのが好きだなって。
下らない話だ、と、聞き流すことは出来ない内容だ。
ある程度の年齢になるとどこに行っても比較と競争が始まり、それは分野によっては熾烈な戦いとなる。
常に競争を強いられると疲れるし、好んで飛び込んでいっているのならばまだしも、仕方がないから、他に選択肢が無いから(無いと思っているから)参加しなきゃいけない、みたいな傾向がまだ強かったりする。
「社会が得意な人が社会を回せばいい」
みたいなことを発言した漫画家がいるが、それはやはり一理ある。
村上龍氏も話していたが、出来ないことは出来ないし、やっぱり無理なことはある。
頑張ればある程度は出来るようになるかもしれないが、それでも無理をしているから苦しいし、爆発につながる可能性もある。
そうなると、別の道や別の生き方を模索する必要があって、それが出来なかったり、そこまで思考が及ばないくらい、競争に追い込まれてしまうと(勝とうが負けようが)、結果、この世から逃げ出してしまうことにもなりかねない。
堺の豪商として名の知れた、歴史の教科書でも登場する千利休は、秀吉のいいなりになって命拾いをするか、逆らって殺されるかの選択を迫られ、後者を選んで自ら命を捨てた。(これには諸説あるようですが)
一方で、千利休と同様の選択を迫られた、豪商のルソン助左衛門という人物がいる。
ルソンは秀吉のいいなりになるのでなく、命を捨てるでもなく、海外へ脱出して新天地に生きるという選択を取った。
今と当時では海外に転出する意味合いは全く違うので、かなり大胆かつ斬新な選択だったはずだ。
現代に生きる僕自身、常に第三の道を探していて、毎日のように掲載される会社幹部からの営業成績表を見るたびにウンザリする。
そこにいる限りは一生ついて回る。
パン食い競争で勝とうとせず、美味しく食べる道、それは必ずあるはずなので諦めずに見つける必要がある。
見つけられた人間がもっともっと増えてくると、日本もまた変わってくるはずだ。
こんなふうに。
自分で限界を知っている人間は対処法を心得ている
双極性障害の友人がいる。
最近は落ち着いているようで仕事もしており、僕と話していても、気分の落ち込みや妙にテンションがあがったりだとか、そういったことは全く無く常に安定している。
先日、その友人と話す機会があった。
僕自身落ち込むことがあり、話す相手がいなくて、たまたま捕まったのがその友人だったのだ。
苦しい時に話を聞いてくれる友人が一人でもいるのは本当に素晴らしいことだ、それは恐らく多くの人間が実感していることだろう。
彼は特に口を挟むでもなく、淡々とこちらの話を聞いて、時折、返答する、といったことを繰り返していた。
話を遮るでもなく、淡々と、まさに傾聴だ。
僕の気分が大分楽になってきたこともあり、友人に、
「一体きみはなぜそんな風にいられるんだ」
と質問してみた。
"そんな風" に、というのは、精神障害を患っていながらも安定した状態にいられるのか、ということ。
彼は、自身がそういった障害があるということ、またそれは遺伝による傾向も多くみられることや自身の祖先にもその片鱗が見られたことなどを挙げ、
「それが分かって(不可抗力である場合もあると)、 "付き合っていくもの" ととらえてからは楽になった」
と話した。
自分の限界がどこにあるのか分かるようになり、その限界をこえるような仕事を引き受けないようにし、そして限界を我慢して我慢していつの日か爆発してしまう、といったことを避けることが大事だ、とも語った。
多くの人間が、 "我慢" が大事でどこか美徳のような風潮もあり、それは決して否定はしないものの、例えば本来向いていない仕事を心に反してやり続けたところでやはり限界があり、これがどこかの段階で爆発して何らかの精神疾患を発症してしまうと、これまで積み上げてきたものがゼロになり、文字通りゼロになり。
しかも、そのツケを自分が払う事になる。
「そうなる前からSOSのサインを、周りに出せるようにしておく姿勢が重要」
友人はそう語り、積りに積って決定的に駄目になってから、実は限界を越えていたことを、自分自身とそして周りの人間が知るのではなく、その大分前から知っておくようにする、そういう環境を常に整えておく。
彼自身、今は自分の障害と向き合い、出来る仕事と働き方を見つけたようで、ちゃんと社会復帰し、定期的に病院に通って薬も処方してもらっているようだが、これも強すぎる薬のようで仕事に差し支えがあるために今は殆ど薬を飲んでいないようだ。
それでも、自分の限界とペース、そして障害に向き合っているから体調を崩すこともあまりない。
面白いのは、仕事や働き方と人生の歩み方、そして自分の限界をジェンガになぞらえた持論を話したところ。
「常に限界に挑戦して、ジェンガのブロックを一つずつ抜き取って、上段に積み上げていく作業を延々と続けていく」
限界に挑戦して常にジェンガに臨む姿勢とその姿は周りから見ても美しいが、いつかは必ず崩れるので、積み上げたものは一瞬にしてゼロになる。
ゼロになったツケを払うのは、これまで、自分自身に対してああでもないこうでもないと言ってきた周りの人たちではなくて、常に自分であると。
友人自身大変な思いをしてこの考え方を体得したようで、
「ジェンガに興じているふりをしつつ、例えば、実は隣でこっそりトランプタワーを作って楽しんでいる」
そんなやり方をしてもいいはず、と僕に微笑んだ。
ジェンガに興じているのは自分自身でジェンガそのものは自分の人生、仕事、その他全て周りの人間が見ている "自分の全て" を象徴しており、自分だけの "人生" やり方、生き方の象徴がトランプタワーだ。
「障害のこともあるので、谷があれば山があること、下がれば上がることを体で実感しているから、"今は苦しくても、これから良くなる" といった考え方も出来るようになった」
とも話し、落ち込む僕を励ましてくれた。
これは僕にとっては画期的な出来事であり、彼との数時間がまさに、ちょっとしたカウンセリング、キリスト教であれば懺悔の時間にも似たようなもので、僕の中にある負の力が解放されて、また翌日から動き出す力を得ることが出来た。
日本もどんどん変わってはいるものの、友人のようなつまづいた人間に世の中はまだ厳しい面がある。
だが一方で、彼等もただ転びっぱなしではなくて、痛い思いをしてそれなりに学び、対処法を心得て力強く社会復帰を果たしている。
そういった人間は決して弱い訳ではない、弱さを知る人間が実は最も強いと僕は思う。
だからこそこうして助けられることもある。