後輩に抜かれるのは日常茶飯事
サラリーマン生活において、多くの人間が出世競争から逃れることは出来ない。
逃れることが出来るのは、そこに重きを置いていない人、仕事以外の時間に人生を注いでいる人、出世を諦めた人などだ。
今の会社は僕のような、外様の中途入社社員にはあまり優しくなくて、新入社員を大事にする傾向にある。
それは必ずしも悪いことではないから、最近も後輩に抜かれた時は驚きはしたもののショックはそこまで大きくなかった。
昇進や昇給についてのルールのようなモノは、会社によって全然違うだろうし、その物差しが営業成績だったり、専門的な内容であればその完成度だったり、他にも様々な要因が作用しているケースもあるだろう。
僕は今年肩書が一つ上がったのだが、それは昨年退職を申し出たこともあり、恐らくその慰留の意味合いが強い面もあると思う。
とはいえ、目に見える形で数字を上げてきた点もあるから、僕の中では「上がって当然」くらいの心境もあった。
上司からも多少恩着せがましく、「上申しておいたよ」と言われ、内心、嬉しくなくも無かったが、蓋を開けてみれば僕より全然仕事が出来ずに数字も上げていない人間も、僕と同じ肩書になっていた。
そして後輩にも抜かれた。
他にも、「なぜこのような人が?」という人間が肩書が変わっていたりして、成績や目に見える数字以外の何か別の "見えない力" が介入している点を感じ、それも仕方がないのだろうな、と、今は妙に納得している。
先輩社員に、
「俺は誰よりも仕事をして、何年も評価は上がらなかったから今の結果は当然。だが、他の同僚の例はおかしい」
そう話す人もいて、皆自分が一番頑張っていると思うし、思いたがるものだから仕方がないが、その先輩の様子を見て何だか哀しくなり僕は自分の不満をひっこめた。
会社は建前としては目に見える数字を上げた者が、昇進や昇給といった査定に反映されるとうたってはいるものの、実際はその部署の人員的な問題やそれにかかる人件費、そして全体としての利益率や年長者に対してのひいき目、およびその他の人間の好き嫌い、そういったものがごちゃごちゃに絡み合って、末端従業員からは分からない複数要因が働いているのだろう。
自分の力が及ばない事や、他の人の結果を羨んだり妬んだり、逆に自分よりは下だと安心したりしてみても、本当のところは目糞鼻糞を笑うのようなもので、それは全然意味の無いことなのだ。
他方、客観的にみれば多少不釣り合いな地位に昇格した者でも、その結果について満足していないとこぼしていたりして、万人に受け容れられる人事制度とその評価制度は殆どないのだし、不公平は当たり前なのだということを思い知らされる。
今年に入ってそうした自身への評価や周りの人間の様子を見ていると、サラリーマンをしている限りは、ずっと、こうした他人からの評価を気にし続け、ああでもない、こうでもない、とこぼし、好むと好まざるとにかかわらず、自分以外の他者との相対評価に巻き込まれていくのだと思い、暗鬱とした気分になる。
僕の上の課長を見ていても、ある程度の年齢でその椅子に就いたときは本当に満足そうで、地位が人を変えるというのはこういうことなのかとまざまざと見せつけられたものだが、その課長にしたって、自分よりも年下の部長を仰ぎ見なければならない現状に内心穏やかではいられないはずなのだ。
部長ですら今の時代は安泰ではない。
限られた椅子に座ることがようやくできても、そこから更に狭き門に進むことを求められ、現状維持を自身が望んでいようが、相応の結果を出さなければ地位を追われる事になり、それはかつて抜き去ったはずの同僚などに追い抜かされることを意味する。
もちろん、一定の地位に就いた者でしかその心境は分からないが、正直、大変だろうなと思う。
先日、日本でも随一のマーケッターである森岡氏の事をブログに書いたが、
価値のあるスキルに値札が付く
ような今の時代において、自分が目指すべきところはそのスキルの保有者となることであり、同時にそれは、上記のような相対評価に巻き込まれずに済むことを意味する。
(限られたスキル同士の争いはもちろんあるだろうが)
何であれ値札が付くスキルの保有者は別のフィールドで戦う事になるため、無意味な競争には縁が無い、それだけでも人生は全然違うものになる。
グーグルでの検索サジェスチョンで出世について検索してみると、
「後輩に抜かされる」
「同僚 出世 嫉妬」
といった、世の中の出世競争に敗れた、または敗れそうな人間の悲哀で溢れている。
同僚に嫉妬しない人間は大出世するらしいが、このような記事は敗れた本人からすれば何の慰めにもならない。
同僚どころか後輩に抜かされるのはもはや日常茶飯事であり、出世以外の価値観を持たない人間や、替えの利かないスキルの保有者以外は否応なしに巻き込まれる。