死ぬのが怖い
自分が死んでしまうのではないか、という得体のしれない恐怖に襲われることが最近多い。
死ぬときの痛みや苦痛が怖い、というのではなくて、自分が自分でなくなることのその瞬間が非常に怖い。
例えば、健康診断を受ける時にも「とんでもない病気が見つかって余命数ヶ月と宣告されるのではないか」とか、あるいは、中国旅行に行く計画を立てているのだが、飛行機がどうも苦手で、何らかの飛行機トラブルに巻き込まれてしまうのではないかだとか、
無事に中国に到着したとしても、テロや爆発事故に巻き込まれてしまうのではないか。
とにかく、殆ど実現しない無用の心配をしてしまうのだ。
一方で、人から聞いた話だが一説によると人間にはもともと、「自分だけは大丈夫」といった防衛本能のような装置が脳に備わっていて、その装置が正常に動いているから我々は車を普通に運転して出かけたり、タバコを吸う事ができるらしい。
確かにどちらも一歩間違えば死への時間は短くなることは確かで、しかし当事者の認識は薄い。
僕はタバコを吸ったりしないが、仕事がら毎日のように車を運転するし、その際に頭がおかしくなりそうなほどの恐怖心に襲われることは殆どない。
そうすると、極度に死を恐れることは何か別の理由があるということになる。
何らかの答えを得るため自宅にある、釈迦(ブッダ)の言葉を要約した本を紐解くと、死に関する著述は数多くあって、中でも以下の内容は目を引いた。
われわれ人間にとって、老・死はどうすることもできないものです。
にもかかわらずわれわれは、「死ぬのは嫌だ」と思い、「いつまでも若くありたい」と思ってしまいます。
そうすると、老・死が苦になるのです。
ということは、老・死そのものが問題ではなしに、「老・死を克服したい」という願望が問題です。
老・死をあるがままに受け容れることができればいいのです。
真理というのは常に足元にあり、そのどれもがあまりにシンプル過ぎるが故に、きちんと腹に落ちて実感することは容易ではないが、死を恐れる恐怖心は、そもそも、「老いたくない、死にたくない」という気持ちから生まれるわけで。
その事を受け容れる落ち着きと心持ちの重要性を釈迦は説いたというのが上記の内容。
宗教によっては死は通過点であり、輪廻転生を本気で信じている人々も世界中に一定する存在するようで、そういった人たちは死を恐れないようだ。
生まれ変わるために死を受け容れることと、人間は誰しもが死ぬものなのだから、という原理原則を受け容れるのか、どちらも結果は同じで中身が異なる。
そういう意味では何かすがるモノがあった方が心理的な恐怖心は薄れるのかもしれない。
いずれにしろ、中国旅行がひかえているのだが、楽しみな気持ちよりも不安な気持ちの方が大きい日もあって大変だ。
たった一人の人間が退社するだけで世の中に億というお金が流れる
日本にセブンイレブンをつくり、コンビニエンスストアの生みの親といっても過言ではない、鈴木敏文氏。
その退職金にあたる報酬は、11億3,200万円。
金額が妥当かはさておき、物凄い金額だ。
東芝の役員クラスの退職金が約1億円というから、その10倍となれば途方もない額であることは確か。
ただふと疑問に思ったのは、その退職金に対しての税金はどれくらいかかるのか、というところ。
最近まで勉強していたFPの知識をいかしてざっくり計算してみることにした。
税務署のHPに記載されている計算式も参考にする。
まず、鈴木敏文氏の簡単な勤続年数を算出。
2016年12月 退任 (年内退任の報道があったため、左記の日付で算出)
すると、勤続年数は54年となる。
退職所得控除額計算式
20年超 800万円+70万円×(勤続年数-20年)
なので、
800万円+70万円×(54年-20年)=3,180万円
11億3,200万円-3,180万円=11億20万円
11億20万円×1/2=5億5,010万円
そして、所得税の税額表によると税率は45%、控除額は4,796,000円なので
5億5,010万円×45%-479.6万円=2億4,274.9万円
税金だけで2億5千万円近くかかることになる、物凄い額だ。
これはかなりざっくりしとた計算で、実際の税務上の処理は全く異なることになるのかもしれないが、いずれにしろ、決して安くはない税金を納めることは間違いない。
また国税庁の退職金における記載によれば、役員クラスは控除額計算において、1/2が適用されない。
もしそうなれば、収める税金は倍以上の額に跳ね上がる。
たった一人の人間が退任するだけでこれだけのお金が動き、世の中に流れていく。
後にも先にも、鈴木敏文氏だけかもしれない。
適度な運動にはパワーウォーキング
パワーウォーキングは、元競歩のオリンピックメダリスト(ドイツ人のハートヴィッヒ・ガウダー)によって考案されました。
1995年、突如細菌性の心臓病に倒れたガウダー氏は、一時回復が絶望視されたものの、その強靱な肉体と精神力で、人工心臓移植、心臓移植と二度にわたる大手術を経て奇跡的に回復を果たし、ニューヨークマラソン完走という快挙を成し遂げました。
その時の闘病生活とリハビリの経験から考案した運動法が「パワーウォーキング」です。
仕事で疲れ果てた現代人が、大変なエネルギーを要するマラソンを日課にする、というのはなかなか現実的でない。
かといって、ウォーキングほど時間を取ることもなかなか難しい。
その中間として、このパワーウォーキングだ。
僕自身、胃腸炎が長引きその後体調不良が続いたため日課のマラソンをこなすことが出来ない日々が続き、過度な運動は出来ないがある程度の運動を、短い時間で行う、といったときにはパワーウォーキングを実行した。
実践してみると、これがなかなかきつい。
普段使用しない筋肉を酷使するし、確かにマラソンほどに心肺機能に負担はないが、体への負荷はきっちりとかかる。
しかも、短い時間である程度の運動がこなせるのだ。
メダルを受賞した日本人の荒井広宙選手でも有名になった、競歩に近いのだろう。
競歩の選手は痩せている選手ばかりだ、つまりダイエット効果も期待できる。
実際に、
・体脂肪が燃焼でき、血行も新陳代謝もよくなります。有酸素運動だけでは皮下脂肪を減らすことは難しいですが、基礎代謝量が増加して、太りにくい体質になり、減った体重を維持することができます。
・全身運動なので血行がよくなり、血液中の糖分や脂肪が減少し、インスリンの働きが活性化され、自律神経のバランスも向上します。
・体内のカルシウムを活性化させ、骨の退化を予防します。
・体を動かすことにより気分転換がはかられ、ストレスの解消にもつながります。
・パワーウォーキングを毎日続けることで生活習慣病を予防したり、体質の改善を図ることができます。
上記の効果が期待できるようだ。
海外のエグゼクティブも好んでパワーウォーキングをしているという記事を読んだこともある。
ひとは年齢とともにこれまで興じていたスポーツになかなか時間を割いたり、体力的にも厳しくなり運動不足にどうしても陥ってしまう。
だからといって何もしないと体はぶよぶよになるばかり。
年齢に応じた運動を適度に実行することが重要だが、例えば、最終的にはフルマラソンを目指している、という初心者にも、その手始めとしてパワーウォーキングは優れた運動法といえるだろう。
自分なりの価値基準を持つことが重要らしい
最近、働き方や自分なりの生き方を実践している人の記事に目がいく。
それはとりもなおさず自分自身がそうありたいと願っているからだと思う。
年収が幾らあって、家があって、ある程度のブランド品を所有し、貯金をいくらしていて家族も持ち、子供を養い、教育費も貯金しつつ、自身への投資を惜しまない...。
そういったものは、"誰か" が作り上げた理想であり、見方を変えればお金をいかに使わ
せるかのマーケティングがいたるところに駆使されている、ということでもある。
最近、会社の先輩が自宅にレンタルウォーターサーバーを設置した。
僕が子供のころは "水を買うなんて" という意識だったが、今や水はお金を出して買うのが常識になりつつある。
その先輩は、一月に3,000円から6,000円程度のお金を払ってウォーターサーバーを使用していて、これが結構ばかにならない金額なのだが、冷静になって考えてみると、日本の水は決して危険な水ではない。
僕が小学生のころは学校の水道をガブガブ飲んだし、もちろん飲み過ぎるとお腹を壊したりもしたがそれでも構わずに飲んだ。
高校生活においても水道水を部活用の飲料水として使用していた、そうしないと、何リットルも消費する部員の喉は潤せない。
今や世界的な水不足で、水を買う、というのは確かに常識としてとらえてもいいが、日本においては、ある程度きれいに濾過されている水が蛇口から流れるし、外国のようにそれが体に害をもたらすことは殆どない。
となると、ウォーターサーバーは本来、必要のないものといえる。
上記の記事でも、お金をある程度持っていてもそれ以上の消費生活を送っているためにお金が貯まらないケースを引き合いに出しているが、いかに我々が消費生活において見えないなにかに支配されているかに気付かされる。
昔、ビートたけしがTVで、
「最近フィットネスクラブが流行っているが、好きで高い金を出しておいしいものを食べて太ってるのに、またお金を出して痩せに行くって、そんな馬鹿な話があるか。その辺でも自分で走ればいい」
と、現代の消費社会をある一面から切り取ったなかなか鋭い指摘をしていたが、これなどはまさに的確。
本来、必要のないものを削るだけで理想とする生活を送るハードルもグッと下がるだろう。
つまりは自分なりの価値基準を持つことが大事なのだろうが、とはいえ、こうも高度に発達した消費社会と、そこに張り巡らされたマーケティング戦略を掻い潜り自分の考えを見つめ直すのは容易ではない。
当時大ヒットした映画、ファイトクラブでは、消費社会の奴隷になり果てた主人公が
内面ではそんな自分に嫌気がさしつつも、それに抗えない葛藤から二重人格を生み出し
もう一方の自分が消費社会を壊すために破壊的行動をしかける、といった、単に暴力映画ではない優れた風刺映画としても楽しめるが、同じことが現実に起きていてもなかなか気づかないものだ。
それくらい、自分の価値観を持つというのは難しい。
あなたの評価は他人がするものですとうそぶく人事
勤め先の会社の人事と僕の異動の件で言い争いになったことがある。
これまでは、大人同士の丁寧かつ柔らかい口調でやりとりをしていたのだが、のらりくらりとした言い回しと、自分を魅せることだけには長けているその人種に嫌気が指し
僕からやる気があるのかどうかも含めて人事にケンカをふっかけた格好だ。
すると人事担当者が
「○○さん(僕の名前)、あなたの評価は他人がするものなのですよ」
と一言。
カチンときた僕は、自分が所属しているその部署で、数字で実績を誰もが目に見える形で出していること、そして社長からも直々にセールス関連の賞を授与されたことを引き合いに出して言い返した。
僕は、人事異動が出来ない点について確かに不満だが、それよりなによりこの会社の人事部の人間が、リストラクチャリングの対象になっているにもかかわらず自身の役割を果たすどころか最低水準の仕事すらしない、その怠慢ぶりに腹が立って言い返したのだ。
あまりにも腹が立ったので、当時の直轄の部長に直接、その事を話したところ、
「気持ちは分かるがあんな何の権限も無い奴に文句言ったってしょうがないだろ、言う人間を間違えてる」
と一言。
確かに、と、的を得た僕はそれから人事に文句を言うのを止めた。
人事の仕事は今の時代、求められる能力が多岐にわたり、簡単に言うと、これまでのようにハード部分(例えば人材の福利厚生面の調整など)よりも、ソフト部分でその能力を発揮しないと意味がない。
ハード部分は今や外注すれば済むことで、そうなると、彼等はソフト部分で何かしら仕事を得ないと、ただの給料ドロボーだ。
その意識がまるでない能無し集団のくせに(全ての人事の人がそうではありませんがという前提で)、僕に説教をしたのが腹が立ったのだ。
とはいえ、暖簾に腕押し、豆腐に釘、馬耳東風、何でもいいが言っても意味の無い連中このよに一定数存在するので、言わない、と諦めると腹も立たなくなった。
しかし、この
「あなたの評価は他人がするものです」
という、なんとも気持ちの悪い言葉。
こういうセリフを吐く人間ほど、残念ながら仕事が出来ない。
それに、この他人の評価ほど、うつろいやすく、いい加減なものもない。
例えば昨年、顧客へのサービス向上を目的としてある業務が始まったが、僕は、その業務が評価の対象にならないことや、やっても全く意味が無いことが分かっていたので(顧客の反応と、それが会社に反映されていないため)、一切その業務をしなかった、ゼロだ。
直属の上司にどんなにこき下ろされてもやらなかった。
だがそれ以外の、セールスに関しては誰よりも取組み、実際に数字にも結果を出した。(その方が会社にもお金になるので)
そして今年、サービス向上業務が必須になり、昇給等の対象になったため、僕は不本意ながらそれを開始し、もともと僕にとっては簡単な業務でもあったため、すぐに数字にその結果が表れだした。
すると、これまでさんざん僕をこき下ろしていた上司が
素晴らしい、ここまでやった人は見たことが無い
能ある鷹は爪を隠すというのは本当だ
常に目標を持ってぶらぶらぶら
等など。
手のひらを返したように称賛しだした、これには呆れて何も言えなかった。
上司が喜んだのは僕が結果を出したからではなくて、僕の出した数字が自分の成績になるからだ。
僕が頑張ると、上司が給与が上がる仕組みはおかしくないだろうか?
勤め先には中国人も働いていて、たまにメールで話したりするのだが、日本人のこういうところはやりにくいだろうな、という雰囲気を彼等からも感じる。
いずれにしろ、「評価は他人がする」時代は終わったので、自分の価値基準をしっかりもって、自分の足で歩くことそれだけが、この日本の閉塞感を打破し、自分の人生を生きる術だと思う。
パチンコ店はうんこをするところではない
僕の職場の近くにパチンコ店がある。
お昼に食事に出る時は周辺に飲食店がそこまで多くないこともあり
パチンコ店に併設されている飲食店で食事をすることが多い。
料金も500-700円くらいなので、サラリーマンの財布にも優しく値段の割には旨い。
パチンコ店に併設されているので、パチスロ台をぬう様にして飲食店へ入るのだが、
何度か通ううちに気付いたことがある。
まず、ド真昼間からパチンコに興じているくらいだから、彼等はちょっと変わっている。
目がギロついているし、他人への配慮が一切ない。
配慮が無いというのは、例えば僕がエレベーターに乗った時。
その飲食店は1Fにあり、建物の構造上3Fからパチンコ店に入店し、エレベーターで降りていくのだが、一緒にエレベーターに乗った人でこれまで、ボタンを押して待ってくれる人は一人もいなかった。
誰もが我先に乗ろうとするし、我先に降りようとする。
パチンコがしたくてうずうずし、ボタンを押すどころではないのだろう。
この前もエレベーターに乗車する時、僕の前に3名ほど男性が先に乗り込み、遅れて僕が乗ろうとしたその瞬間にエレベーターの扉が閉まり、僕は間に挟まってかなり痛い思いをした。
もちろんその間、彼等の誰一人として、ボタンを押したり、何か声をかけたりはしてくれなかった。
そして降りる時は全員が僕より先に降りた。
最も衝撃的だったのは、食事後にちょっと尿をもよおし、トイレに入ったときだ。
トイレルームの中央の床に何やら、茶色い異物が "でん" と、陣取っていた。
最初はそれが何の物体なのか分からず、気にもせずに小便コーナーへと立ち寄ったが、
僕の次に入ってきた男性が、「え!え!」と、その異物を指さして僕に笑いかけてきた。
それでやっと気づいたのだが、それは人間の大便だった。
しかも、ご丁寧に誰かが靴で踏んだ後まであった。
僕の次に入ってきた男性は無言で僕に笑いかけ、用を足してそのまま出ていったため
僕が大便をした訳ではない、という訂正をする暇も無かった。
その男性が出て行ったあと、扉のドアが少し開けっ放しになっており、その外に
店員二人がいる姿を見かけたが、どちらも大便があることを分かっている様子ではあるものの、ちっとも慌てるそぶりがなく、かといって飛んできて掃除をするわけでもなかった。
つまりこれは、日常茶飯事ということなのだ。
大便をした犯人は勿論分からず仕舞いだが、用を足している時に人が入ってきたらどうするつもりだったのだろうか。
僕はパチンコ含むギャンブルを一切やらないので、この大便事件はかなり衝撃的だった。
後になって知人にその事を話すと、パチンコトイレで便器が壊れたり、ドアが破壊されたり大便や小便をまき散らしたり、そういった事をする輩は結構多いようだ。
どうやら、負けて大金を失った客が、店に仕返しをするためにやっているらしい。
「たまに首つり自殺なんかもあったりするよ」
なんてことないよ、こんなこと、という様子で知人は話したが、僕にとっては驚き以外の何ものでもない。
いずれにしろ、話を戻すと、平日のそれもド真昼間からパチンコに興じる輩は、何かしら頭のねじが外れてしまっているのかもしれない、頭の中はパチンコで一杯、他には何も興味が無いはず。
先日も食事をして戻る時にホールを歩いていると、見慣れた作業着姿の男性を見かけた。
よく見ると、僕の会社が入っているビルの清掃をしている係の男性で、作業着のままでパチンコに興じていた。
それもお昼の13時過ぎ、凄い光景だった。
あの真剣なまなざしで仕事や人生に取組んでいれば、彼等の人生もまた違ったものには
なるのだろう。
僕には分からない世界だが、少なくともパチンコ店はうんこをする場所ではない。
その点だけは確かだ。
日本語の使い方はその時代によって正誤があるのかもしれない
よろしかったですか?
存じ上げます
くださる、なさる、いただく...。
日本語は繊細で細やかな表現をするには確かに素晴らしいが、一方ではとにかく面倒な一面もある。
何が正しくて何が誤りなのか、そもそもそれすらも分からないものも多く、あまり気にし過ぎると会話が出来ない。
ところが先日、「全然」という言葉をテーマに放送されているラジオ番組を聴いたときのこと。
「一般的には、 "全然" という言葉の後には基本的には、否定的な言葉がくるもので、例えば、 "全然" "悪くない"という風に使われる。でも、この "全然" の後には必ずしも、否定的な言葉ばかりではないという説も最近出てきた」
ラジオのMCがそう語り、根拠として夏目漱石の坊ちゃんで、 "全然悪い" という記述があることを付け加えた。
そうなると、↓のタイトルのような映画も、また違った意味を持ってくる。
いずれにしろ、日本語がどんどん省略可されて良く意味の分からない言葉が生まれたり、僕自身も知人にかつて
「だいじょばない」
と言われたときは、最初は意味が分からなかった。
「体調、大丈夫?」
「いや、だいじょばない(大丈夫ではない)」
ということらしいのだが。
こうしてみると、ことばというのは生き物のようで、使い方が時代によってどんどん変化していき、本来あるような使用方法とは異なったり、それによって、本来持つ意味以上の何かをもたらしてもいるような気がする。
時代によって正誤が分かれるのかも知れないが、その線引きもどこか曖昧だ。
とはいえ、
「ありがとうございます」 → 「あざーす」
「お疲れ様です」 → 「おつでーす」
最近、かなり言葉が短くなってきているとも感じる。