生き方も色々あると実感
これは、僕が初めて中国に渡航したときの印象だ。
桂林という観光地になるので、上海や北京、日本企業が多い大連とは異なるだろうが、何というか、非常にユルい感じが僕にはとても心地よかった。
とはいえ中国に行く前は、治安の問題やPM2.5のこと、その他とにかく不安しかなかった。
だが、当たり前だが治安はかなり安全といって良いし(桂林が観光地だからだろう)、空気も悪くないし、心配することは何一つ無かった。
一方で感じたのは、人々はあまり働く気がない。
愛想というのにはほど遠いし、それどころか、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」なんて言葉も言わない。
雑貨店で水を買ったときなどは、無言でテーブルに手をトントンとして、「金をここにおけ」と、真顔で言われたこともあった。
更には、店番をしながら食事をするのはざらで、雑貨店だろうと携帯電話店だろうとそれは同じ。
お客より飯が大事なのだ。
その時期の桂林は梅雨のために路面は常に濡れており、熱心に働くことをしないためなのか、水捌けも非常に悪かった。
だが、僕は全然嫌な気持ちにならなかった。
そのような振る舞いが許されることも驚きだが、それは逆に言えば、自分もそこまでのサービス精神を求められていないことを意味する。
これが本当に楽なのだ。
日本ではこうはいかない。
雨のなか現地の人を観察していると、意味もなくずっと川辺に突っ立っていたり、太極拳なのか何なのかよく分からないが上半身裸で踊っていたり、うまく表現はできないものの、人々はストレスとは無縁の生活を送っているように見えた。
少なくとも、日本で気にしなければならない空気を読む、といったある種の精神的な圧迫感は皆無だ。
また彼等は、家族と、その家族との時間をかなり大事に考えてもいるらしい。
友人に聞いたエピソードを用いると、日本では親が病気だろうと会社は休めないが、中国だとそれはないという話らしい。
無論、急激な経済発展を遂げた国でもあるから、金持ちになった上海人の観光客が、所得は上がったとはいえまだまだ低い水準にある桂林の現地人が同じ空間に生きている、というイビツな構図ももちろん存在する。
だが人々の間には悲壮感もなくて、いい加減に済ませてしまいたい僕には本当に居心地が良かった。
今回はたまたま中国の桂林にいって、現地の生活に触れ、こんな気持ちになっただけで、他の国に行けばまた違った価値観を僕は発見するだろう。
それはもしかすると、今回の中国の旅で発見したものを否定するものかもしれない。
それはそれで面白い。
生き方はなにも一つではなくて、文字通りです多種多様であり、容易にはくくることの出来ない広がりのあるものである、ということを実感するだけでも得ることは大きい。
これだから海外旅行は止められないのだ。
心が雨漏りする日には
心が雨漏りする日には
作家の中島らも氏の著書のタイトルだが、人間の心のありようを見事にとらえたコピーには脱帽。
人間、生きていれば心がザラついたり、心の中に雨が降って、雨漏りしてなんだか悲観的になったりすることがある。
特に何かに悩んでいたり、悲しみに暮れるような出来事に直面していなくても、朝起きたら何だか心にしこりがあるようなそんな時だ。
心というのは時には暴れ馬のようなもので、手綱をしっかり握り、こちらの言う事をきくように仕向けないと、とんでもない大暴走をしてしまう。
僕は酒をやらないし、何らかの薬を服用している訳でもなければ、その他何か依存性の高いものに手を出している訳でもない。
鬱でもないし、何らかの精神疾患もない。
それでもやはり上述のように突然、心が、何となく落ち着かないような日がある。
そんな時どうするかというと、まず走る。
全速力でも良いし、軽いジョギング程度でもどちらでも良い。
目的は、走ることにより全身が動き、その振動で心に落ち着きを与え、安定させることにあるからだ。
ウォーキングなどによる振動も、心を落ち着かせるには丁度良いらしい。
僕の場合は更に一歩踏み込んで、走る時に音楽を聴くのだが、それも更に、南米の陽気な音楽をひたすら流す。
何回も何回も、だ。
20代のころにスペイン人とアルゼンチン人と一緒にサッカーをしたことがあるが、彼等は本当に陽気だ。
陰気な人もそれはいるのだろうが、未だお目にかかったことが無いし、全体としては少ない印象。
何というか、常に話しているし、情熱的だし、最も適切な表現としては、底抜けに明るいのだ。
そんな気質を持つ人間が唄った曲なのだから、当然、南米ソングは明るい曲が多い。
中でもお下劣なものは目を引く。
何してるの?
君はかわいいよ!
そんなことより一杯飲んで、セックスしようよ!
気持ちいいね!!!
といったようなものだ、思わず笑ってしまう。
僕の地元にも南米二世の歌手がいるが、彼の曲は情熱に溢れ、やはり底抜けに明るいものばかりで、地元では知らない人はいない。
そんな曲を聴きながらマラソンをし、しかも外が今日の真夏日のように晴れていれば、暗くなることなんてできない。
明るくなることはないかもしれないが、暗くなることはどうしたって出来ないのだ。
例えば心が落ち着かない時にこれをやると、全てが終わった後にかなり楽になるのが分かるのだが、心が普通に安定している時にやると、不思議と陽気な気持ちになり、何でもできるような、
人生ありがとう(*´Д`)
みたいな、そんな気分になってしまう。
「ワタシ、AVをやってから何でもできるなって、そう思うようになったんです」
アダルト動画に出る女優がAV業界に飛び込んで良かったことをそう述べていたが、そんな身売りなんかしなくたって、何でも出来るような気分になれる方法は幾らでもある。
心が落ち着かないことは誰にでもあることだろうから、そこからどうするのか、知っておくだけで人生はかなり楽になると思う。
ところで、マラソンやウォーキングの時に聴く曲だが、暗い曲は聴かない方が良い。
「かわいそうなアタシ」
みたいな曲を聴いてしまうと、もうどこまでも沈んで行って死にたくなってしまうからだ。
そのような曲は一見落ち着きをもたらし、自分を慰める役割を担っているように見えるが、実際は逆効果だ、心が余計に雨漏りする。
自分の悩みは他人事のように、人の悩みは自分の事のように
人間は悩む生き物で、どんなに満たされていても心の中には一つくら悩みがあるものだ。
大変な内容ももちろんあるが、僕自身これまで悩んできたことの殆どが、いま思えば下らないことだ。
取り越し苦労で心がズタズタになったことも数知れない。
そんな時、よほどの強い人かポリシーでもない限りは多くの人間が僕も含めて他者にその悩みを打ち明けるのだろうが、大抵、誰もが、自分以外の他人の悩みなんか大した事無いように見えるから(実際大したことないことが多い)
「なんだそんな事か、だったらこうすればいいじゃないか」
と軽くあしらい、話すら最後まで聞かず簡単に片づけてしまう。
悩みを打ち明けた方としては、話すことにより整理したり自分の気持ちを消化することも目的だったりするから、
「それはそうなんだけど...」
と、何だかスッキリしない気持ちが残る。
僕も一回り近く上の人間に悩みを打ち明けたところ、その話を途中で遮られ、
「お前の問題なんか全然大したことない、俺が解決してやる。
俺なんか、〇〇〇で、それどころじゃないんだ、もっと大変なんだよ...」
と、いつの間にかその人間の話を聞く側に回っていたこともあったりした。
何だかなあ、と消化不良に陥った心境をなだめられずにいたことを覚えているが。
だが気付いたのは、これを逆にするとなかなか良い結果が出るのではないだろうか。
具体的には、自分がいま悩んだり考えたりしていることは、きっと他の誰かからしたら、下らない内容でしょうもない事だから、
「こんなことは簡単なんだ」
という風に、思考を無理やり他者目線に切り替えてみるのだ。
かくいう僕もいま実行中で、何かに悩んだり思考を巡らせるたびに
「今考えていることは大したことなくて、シンプルかつ簡単でくだらないこと」
という風に自分自身に言い聞かせるようにしている。
恐らくすぐには出来ないから練習が必要だが、それによるメリットが少しづづ享受出来ていて、まず、これまでの
悩む・考える → 悲観的・暗い気持ちになる → 疲れる → ストレスがたまる → 他の事までうまくいかない → 余計悩む
この手の永遠に続くかのように思われる負のサイクルをバッサリ断ち切れるということがかなり大きい。
一方で、人の話を自分のように聞くと、かなり親身になって寄り添うし、無駄にこちらからは口を開かないから相手も全幅の信頼をこちらに委ね、思いのたけをぶつけてきて、結果お互いの距離も縮まるしある種の絆も生まれる。
とはいえ、人の話をあまり全身で受け止めて何もかも自分に入れてしまうとかなり疲れるので、ある程度の距離感も必要ではある。
いずれにしろ、頭の中で考えている悲観的かつネガティブな内容は、その殆どがゴミで全く根拠のないことだと知るのはかなり効果的ではある。
それは意味すらないのだ。
そのような下らない、自分自身の頭を駆け巡る思考や悩みは、早いことゴミ箱につっ込んで、頭の中を愉しいことで埋め尽くす方がよっぽど身体にも良い。
人にも優しくなれる。
また急いでしまった
急に海に行きたくなり、夜勤明けの眠たい目をこすりながら飛び出した先は海。
この世の楽園だ。
いつまでもこの風景を眺めながら、無駄に時間を過ごすのも悪くはない。
が、僕は急かされるように日課のマラソンに入ってしまった。
海岸沿いを走るのでそれはそれで気分は良いのだが、もっと、あの景色をだらだらと眺める時間をもっと取ってもよかった。
いつもそうだが、特に何か予定が入っている訳ではないのに、時間を気にせずにその場所や風景、時間を愉しむ、という些細なことが出来なくなっている。
僕は今の会社に中途で入社し、新卒とは扱いが異なることから、自分で自分にスポットを当てるために様々な事をしてきた。
一人で何役もこなしたし、宴会部長というのか、下働きの泥臭いこともやったし、眠い目をこすりながら資格勉強にも励んだ。
一方で企業側も、新卒はまだしも中途を育てる余裕なんかないから、"自分で自分の能力を伸ばせ"とばかりに突き放しながらも、一人で何役をもこなすような能力を求める傾向にある。
例えば企画書を書きながら、電話口で営業をかけ、頭では上司に対しての報告を考えつつ、隣の同僚にも目を配り、飲みの席では場を取り仕切る細やかさ、といったような。
出来ないわけではない。
だが、かなり無理があるし、無理をしている。
そんなことを常日頃からやっていると、何かをしながら別のことをしなければならない、といった強迫観念のようなものが出来てしまい、上述のように、せっかくの美しい光景を目の前にしても、それを見ながらマラソンをしよう、だとか、本当に下らない行為に走ってしまう。
地方で電鉄会社を経営する60歳近い経営者がとある日のブログで、夕日が沈む瞬間の幻想的な光景を目にし、深い感動を覚えたと語りつつ、
「あと何回、この景色を見ることが出来るのか」
と考えたという。
ある程度の年齢に達すると、自身の目の前に広がる光景が、残された人生において数えられる程度しか見ることが出来ない、あるいは二度と目にできない、と思うようだ。
その瞬間のその出来事や事象、目の前に広がるものは、もう二度とかえってこない。
だから、本来は他の事に手を付ける暇なんかないし、そうすべきでもない。
僕は、大事な瞬間を、別の事に気を取られて見逃してしまうことがあまりに多すぎる。
人生の残り時間はまだまだあると思うからそうしてしまうところもあるのだろうが、年をとったらとったで、出不精な僕はきっと外出するのが億劫になり、そうなると、あの美しい光景にはもう出会えないことになる。
「時間泥棒」をテーマにした、ミヒャエル・エンデの "モモ" という本がある。
小学生の時分の指定図書で、活字が苦手だった僕もひいひい言いながら読んだことを覚えているが、正直、あの時はこの本が意味することなど全く分からなかった。
小学生なんて時間ははいて捨てるほどあるから、盗まれたくらいではなくならないものだと思っていたのだ。
だが、"モモ"という作品は、あまりに合理化、効率を追及する人間への警笛であったことが今なら分かる。
そして僕も、本に登場する "灰色の男たち" によって、気付かぬうちに時間を奪われていた。
"灰色の男たち" は、企業であり社会であり、古い価値観や誰かに詰め込まれた先入観であったりもするし、あるいは、僕自身が灰色なのかもしれない。
どちらにしても、僕は灰色にどっぷり染まっていて、それすら殆ど気付かずに毎日過ごしているのだが、こうした、日常の些細な出来事の瞬間に思い出して我にかえる。
そんなことを繰り返しているのだ。
なんともったいないことか。
サラリーマン生活で消耗すると思考が停止する
労働整備が整い長時間労働が減ってきたとはいえ、多くのサラリーマンが日に10時間程度働くのはざらだと思う。
僕もご多分に漏れず10時間拘束される形で勤務し、出勤時間等を含むと実に一日の半分くらいを仕事に取られてしまう。
帰ってくると自宅のことをやらなければならないので、それが終わるともう寝る支度、起きたら起きたで仕事の準備。
このサイクルをずっと続けていると、1日は本当に早いもので単に会社と家の往復だけになる。
このままではいけない、と、冷静になろうと努めて何らかの思考を試みるも、頭が回らない。
何を考えて良いのかも分からなくなるし、自分が本当に何をしたいのかも分からなくなる。
「自分の心の声を聞こえないふりをしていると、そのうち本当に何も聞こえなくなる」
リアルという漫画で、下半身に障害を持つ登場人物の父親がゾッとするような表情でこの言葉を述べるシーンがあるが、僕を含め現代の多くの人間は、自分の心の声を何らかの理由で押し殺して日々の人生を生きており、自身の心の声が、まさに蚊の飛ぶかすれた音程度に薄れつつある危険性がはらんでいる訳で。
週二日程度の休みで、自分と向き合い、自分を取り戻し、心の声を聞き受けとめる、ということはなかなか容易ではない。
疲労回復のために寝るだけだし、起きても平日出来なかったことをこなすだけで、家族を持っていると更に自分のための時間は無い。
自分が何者で、いまどこにいて、これからどこにむかおうとしているのか、さえ分からなくなる。
そうして疲れた足取りで書店にふらっと立ち寄り、インスタント的な自己啓発本にふらふらっとすいよせられるのがせいぜい関の山で、殆どが何も考えずに、むしろ自ら思考停止になるように仕向けているふしすらある。
自分が歩んでいる道や現状に疑問があるなら、まず、今の状況を脱する意味でも辞めてみる、という手段が良くあげられる。
後さき考えずに会社を辞める、という強制手段だ。
これは食えない等のリスクはあるが、だが、そのくらいしないと、自分と向き合う時間はなかなか取れないかもしれない。
僕にしてもこれまで、自身のキャリアを何とか形成するために、睡眠時間を削って専門学校に行き資格を取得したり、独学で資格勉強をしたり、時には実務を習得するためにダブルワークに励んだり、そういったことをやってきて今もやっているが、具体的に行動することはかなり有効な方法だとしても、あまりに様々な事を消耗し過ぎて何が何だか分からなくなってしまう。
どこに行きたいのか、分からなくなってしまうのだ。
セミリタイア。
毎日のようにあらわれる、自身の前に広がる膨大な時間をどのようにして過ごすか、それはそれで大変だろうが、本来、人生というのは何かの準備や急いで進むものでは無くて、無駄な時間を好きなように使うのが、まさにそれこそが至上最高の贅沢なのだろう。
それは、消耗しているなかで自分の心の声を聞く、有効的な方法でもある。
昨夜出勤前にふらっとバーに立ち寄ったが(酒を飲むためではなく食事のため)、
"人生、たまには回り道"
といった看板があり、古より伝わる日本人特有の言い回しとは言え、思わずその看板に見惚れ立ち止まってしまった。
人は皆、人生を踏み外したいのだ、だから、そうなるまいと無意識に思考を停止させようとする。
その時に葛藤するのは自分の心の声と、これまで自分に様々な形で介入してきた親しい人間、そうではない人間からの、善意/悪意どちらも含んだ、投げかけられた言葉であり、そうして形成されたある種の先入観だ。
チャーリーチャップリンはやはり偉かった
Life can be wonderful if you’re not afraid of it. All it takes is courage, imagination... and a little dough.
人生は恐れなければとても素晴らしいものだ。人生に必要なもの、それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。
これは、チャーリー・チャップリンが遺した数々の言葉において最も有名な言葉かもしれない。
夢と勇気とサムマネー、とか、愛と勇気とサムマネーだとか、日本語訳は様々な形で出回っているがいずれにしろ、彼が言いたいことは誰もが分かっていると思う。
この、サムマネーとした点にチャップリンの人生に対する考え方が表れているように思われる。
僕は金持ちになったことはないし、金持ち一家に生まれた訳ではないので分からないが、ある程度の情報を集めてみるといわゆる裕福な人間というのは必ずしも幸せではない、という見解があるらしいことが分かった。
あまりに多くのお金を持っていると、家族やその他の人間関係がおかしくなるのは否めず、それ程でもないお金に対しても、その保有している富に対してそのおこぼれに預かろうとする人間の多さ故に、広がると思われた選択肢も狭まり、以外にも不自由になるらしい。
「試してみないより試して失敗するほうがいい」ということわざがある。
だが、金持ちになることについて、このことばはまちがいだ。
大まちがいだ。
-中略-
たくさんの金を儲けるのは、船をあやつるのに似ている。
人として扱われなくなり、金塊をめいっぱい積んだ船となる。
まわりの人が欲しがるのは積み荷の金であり、そのためならどんなことでもする。
あなたは、そのうち、積み荷満載のガリオン船船長として、焼かれたり沈められたりしないように気を付けなければならなくなる。
-RICHより-
また、今から十数年前に耐震偽装問題で日本中を騒がせた、あの不動産デベロッパー会社ヒューザー元社長である小嶋進氏。
学歴こそ高卒だがその詳細を不動産ビジネスいかんなく発揮し、当時の資産は数十億ともされていたようだが、小嶋氏は、取材をうけ以下コメントを残している。
もう時効だからいっちゃうけど、銀座のクラブでカネを燃やしたことがあるよ(笑い)。
結局、お前たちが欲しいのはカネかと。
なんか悲しくなってしまってね、涙を流しながら、こんなにカネがあるからよくないんだと。
嫌いなものは女、酒、カネといって、札にウィスキーかけて燃やした。もっともあれ以降は、女性たちもいなくなってしまったけどね。
もちろん、全てのお金持ちがそうだとはいわない、個人的には、持たざる者の方が幸福度は低いと思う。
僕は、今日のパンを買うお金が無い、という悲惨な状況も目にしてきたし、どちらかというとその方が悲惨過ぎて、金を持っている方に天秤が傾かざるを得ない、この世において金が無い、というのは本当に残酷だからだ。
だから、チャーリー・チャップリンは偉かったのだ。
little dough
「サムマネー」と訳される、 "little dough." は、一かけらのパンであり、それは今でいういくらかのお金、という表現になるらしいが、沢山のお金を指している訳ではないことは間違いなく、お金はいらない、としているわけでもない。
チャーリー・チャップリンの言葉がいつまでも残り続けている理由がここにあるのだと思う。
例えば僕の二回り近く年上の知人。
彼は数年前にやっと昇進し収入もある程度増えたものの、仕事なんかかなりいい加減で遅刻も結構するらしく、とはいえ上からの評判は悪くないようだし、子供との関係も良好で、たくさんの友人に囲まれながら若いふりしてインスタグラムを熱心にやっている。
何が言いたいかというと全力で人生を愉しんでいる。
金がある人を羨んだりしない、むしろ上手に驕られたりして他人の金で遊ぶことに長けている。
自分の人生に満足しているのがはたから見ていても良く分かるのだ。
僕にとってこれは非常に考えさせられる光景だ。
こと金に関しては「あればあるほどいい」という思考が強いためまだ答えは出ないが、そこに振り回され過ぎると人生を見失うという点はあると思う。
あまり深く考えすぎない方が良い
何か物事を判断する時に、その選択肢によっては僕はかなり考え込んでしまう場合がある。
あれか、これか。
レストランで立ち寄った時に選ぶメニューやちょっとした小物にかけるお金を迷うのではなくて、例えばもう少しお金や人生が懸かるもの、海外旅行にいくかいかないか、だとか転職するか、辞めてフリーターになるか、とかそういったことだ。
ここで挙げたいのは、人生において自らが歩む道の選択肢を目の前にした時のこと。
年齢も年齢なのだろう、転職や独立といった人生に影響するであろう一つ一つの選択肢を目の前にしたときかなり考え込んでしまい、途方に暮れ、疲れ果ててしまう日が増えた。
決断して、その後はその選択を振り返らずに一目散に駆け抜ける方が、例え結果の良し悪しにかからわず精神的にはそこまで滅入ることは無いはずだ。
しかし、よく考えてみてほしい。
あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。
こうやったら食えないかもしれない、もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道だ。
それなら迷うことはないはずだ。
もし食うことだけを考えるなら。
そうじゃないから迷うんだ。
危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。
ほんとはそっちに進みたいんだ。
だから、そっちに進むべきだ。
岡本太郎氏の著書にある刺激的な言葉で、瀬戸内寂聴氏もこの考え方に大変ショックを受けたようだが。
この言葉を前に選択できずに考え込んでしまう人間が一定数はいるようで、僕もそうだが疲れ果ててしまうのだ。
↑を書いた方が今どうしているかは分からないが。
だが、何かを選択する時に詰め込んだ知識やら創造力が邪魔をすることが往々にしてあるような気がする。
下らない事をごちゃごちゃと考えすぎてあれこれ理由を付けて結局やらずにこれまでと同じ選択肢をとる、というものだ。
同じ選択からは同じ結果しか生まれないから、また同じことできっと悩むことが出てくるだろう。
今日もまた何を書いているのかわけがわからなくなってきたが、あまり考えすぎにもっと楽に選択するくらいがちょうどいいかもしれない。
どうせいつかは死ぬのだから。
やりたいことができていないのなら、すぐに別の選択肢を取った方が良い。