サラリーマン生活で消耗すると思考が停止する

労働整備が整い長時間労働が減ってきたとはいえ、多くのサラリーマンが日に10時間程度働くのはざらだと思う。

 

僕もご多分に漏れず10時間拘束される形で勤務し、出勤時間等を含むと実に一日の半分くらいを仕事に取られてしまう。
帰ってくると自宅のことをやらなければならないので、それが終わるともう寝る支度、起きたら起きたで仕事の準備。

このサイクルをずっと続けていると、1日は本当に早いもので単に会社と家の往復だけになる。

 

このままではいけない、と、冷静になろうと努めて何らかの思考を試みるも、頭が回らない。

 

何を考えて良いのかも分からなくなるし、自分が本当に何をしたいのかも分からなくなる。


「自分の心の声を聞こえないふりをしていると、そのうち本当に何も聞こえなくなる」

 

リアルという漫画で、下半身に障害を持つ登場人物の父親がゾッとするような表情でこの言葉を述べるシーンがあるが、僕を含め現代の多くの人間は、自分の心の声を何らかの理由で押し殺して日々の人生を生きており、自身の心の声が、まさに蚊の飛ぶかすれた音程度に薄れつつある危険性がはらんでいる訳で。

 

週二日程度の休みで、自分と向き合い、自分を取り戻し、心の声を聞き受けとめる、ということはなかなか容易ではない。

 

疲労回復のために寝るだけだし、起きても平日出来なかったことをこなすだけで、家族を持っていると更に自分のための時間は無い。

 

自分が何者で、いまどこにいて、これからどこにむかおうとしているのか、さえ分からなくなる。

そうして疲れた足取りで書店にふらっと立ち寄り、インスタント的な自己啓発本にふらふらっとすいよせられるのがせいぜい関の山で、殆どが何も考えずに、むしろ自ら思考停止になるように仕向けているふしすらある。

 

自分が歩んでいる道や現状に疑問があるなら、まず、今の状況を脱する意味でも辞めてみる、という手段が良くあげられる。

 

後さき考えずに会社を辞める、という強制手段だ。

 

これは食えない等のリスクはあるが、だが、そのくらいしないと、自分と向き合う時間はなかなか取れないかもしれない。

 

僕にしてもこれまで、自身のキャリアを何とか形成するために、睡眠時間を削って専門学校に行き資格を取得したり、独学で資格勉強をしたり、時には実務を習得するためにダブルワークに励んだり、そういったことをやってきて今もやっているが、具体的に行動することはかなり有効な方法だとしても、あまりに様々な事を消耗し過ぎて何が何だか分からなくなってしまう。

 

どこに行きたいのか、分からなくなってしまうのだ。

 

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セミリタイア。

 

毎日のようにあらわれる、自身の前に広がる膨大な時間をどのようにして過ごすか、それはそれで大変だろうが、本来、人生というのは何かの準備や急いで進むものでは無くて、無駄な時間を好きなように使うのが、まさにそれこそが至上最高の贅沢なのだろう。

 

それは、消耗しているなかで自分の心の声を聞く、有効的な方法でもある。

 

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昨夜出勤前にふらっとバーに立ち寄ったが(酒を飲むためではなく食事のため)、

 

"人生、たまには回り道"

 

といった看板があり、古より伝わる日本人特有の言い回しとは言え、思わずその看板に見惚れ立ち止まってしまった。

 

人は皆、人生を踏み外したいのだ、だから、そうなるまいと無意識に思考を停止させようとする。

 

その時に葛藤するのは自分の心の声と、これまで自分に様々な形で介入してきた親しい人間、そうではない人間からの、善意/悪意どちらも含んだ、投げかけられた言葉であり、そうして形成されたある種の先入観だ。



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