日本からアメリカへの貢ぎ物

 

今年は、日経平均株価が2万円台の大胆予想も出ているが、日本からアメリカへ51兆円ものインフラ投資を行うといった話が進んでいるようで。
円安容認を交換条件としていれば、株高が続く可能性もあり、確かに2万円台も夢ではないのかもしれない。

だがそのために犠牲になる資金は、我々日本国民の、大事な、お金です。

 

あべ首相、ころされるんじゃないか、こんなことして。

 

 

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- 一晩で51兆円! - 以下転載

2月10日の日米首脳会談に世界が注目している「トランプへの土産」がある。

米国への経済協力の原案は既に日本の新聞でも報道されているが、特に目を引くのが、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)による米国インフラ事業への投資である。

この原案では米で数十万人の雇用創出につなげるという効果を謳っている。

総額4500億ドル(約51兆円)の土産の見返りに、安倍首相はフロリダのトランプ御殿(別荘)に招待され、ゴルフも共にする。

一晩の会談で51兆円を持って来てくれる日本とは何と気前が良いのだろう。

 

参考記事

日経電子版(2月2日付)「公的年金、米インフラに投資 首脳会談で提案へ 
政府、雇用創出へ包括策」

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS01H5E_R00C17A2MM8000/

 

FT紙(2月7日付)”Shinzo Abe drums up business pledges to woo Trump”,

https://www.ft.com/content/cdae8542-ed22-11e6-930f-061b01e23655

 

米国の友人は「米国にとっては良いかもしれないが、日本の将来にとっては良くないでしょう」と心配のメールをくれた。

日本の友人は「GPIFからカネをつぎ込むとは、日本にもいよいよカネがないとしか思えない。国民に将来支払われる年金が米国のインフラに投資されて回収できなくても文句も言えないだろう。今でさえ年金受給額が減っているというのに、日本の若者がかわいそうだ」と悲嘆に暮れていた。

拙著『円消滅!』で描いたシナリオが刻々と近づいているようだ。

2月のトランプ旋風の中、各国中央銀行が注目するのは長期金利の上昇である。

中国ですら利下げから利上げへと方向転換し、QE出口に向かっている。

日銀も「テーパリング」(量的質的緩和が拡大から縮小に向かう)間近ではないだろうか。2月3日(金)に発表された米国雇用統計によると、米国はほぼ完全雇用に近く、FRBは3月のFOMCで利上げに踏み切る可能性が高い。

しかも、利上げは年に3回以上実施されるかもしれない。

その一方で「強いドルは不公平」というトランプの一声で、日本には貿易不均衡解消のために円高を強いてくる。

日本の優れた産業や国民の年金までもすべてを吸い上げるトランプ政権。骨の髄まで貢ぎ続ける日本政府。まさに「Odd couple」である。

「カネの切れ目が縁(円)の切れ目」となるか。

 

 

大人になってスタンド・バイ・ミーを観ると何とも言えない心情になる

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リバー・フェニックス

彼こそがこの映画では英雄だ。

あの、少年時代の虚ろで、もろくて、はかない、心の機微みたいなものを、これ以上ないというくらい素晴らしい演技で披露した。

元々は路上でパフォーマンスを披露する程の貧しさだったというから、そこから培われたものなのかもしれない。

リバー・フェニックスには弟がいて、グラディエーターの王役で有名な、ホアキン・フェニックス
これは全然知らなかった、まさに役者一家ということなのだろう。

 

スタンド・バイ・ミーには、若き日のキーファー・サザーランドジョン・キューザックも出ていて、彼等の演技シーンも新鮮で非常に良い。

 

 

それにしても、このスタンド・バイ・ミー

 

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こんな表情、大人になってからは出来ない。

忘れていた、少年時代の心情を呼び覚ましてくれる。

 

女性はどういう目線でこの映画を観るのか分からないが、映画の語り口にもあるように、「彼女のいない少年には友人は素晴らしいもの」で、友との小さな世界が、人生のすべてだ。

 

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ある程度の年齢になると、バカをやると社会からはつまはじきにされ、次第に誰からも相手にされなくなる。
常識を身に付けて節度のある接し方を求められる訳だが。
分かるようで、それはなんだかつまらない。
子供のころは当たり前だが、そんなことは一切、考えなかった。

 

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親に嘘をつき、友人同士で隠れて何かしら後ろめたいことをする。
ストーリーは死体を見に行く、というごくシンプルな内容だが、その過程で描かれる
彼等の友人関係、その周囲の、大人を含めた彼等を取り巻く関係、そういったところに強いシンパシーを感じる。

 

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"あの12歳の時のような 友だちはもうできない もう二度と"

未だにこの映画が観られているのは、誰しも、12歳の時のような友だちがもうできないと感じているからだろう。
それが人によっては、10歳だったり、13歳、15歳と異なるのかもしれないが。

 

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ダーリン、ダーリン、というのは、愛する人というので、それは異性に限らず、こういった友人に対しても表現する言葉らしい。

だが、テーマソングでもあるスタンド・バイ・ミーを唄った、ベン・E・キングも亡くなった。

リバー・フェニックスもしかり。

 

 

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いつまでも若いつもりが、キーファー・サザーランドのセリフのような年齢に近づいてしまった。

あたりまえだろうが、中国でも自殺はあるようだ

自殺。

日本では3万人をようやくきったものの年間多くの人間が自ら命を絶つ。
理由は様々だが、やはり、この閉塞感から逃れたくて不幸な結果を選択してしまうことも多いように感じる。


また、大きな挫折、例えば離婚や就職や自営業、そういったことに関して失敗して立ち直れずに自殺してしまうこともある。

 

加えて最近の風潮としてよく感じるのは、他人の迷惑に以前よりも、それも相当に非寛容になっているところ。
なにかヘマをするとかなり酷く叩かれるのは、もう日常的な光景となったし、そうするとどうしても他者に積極的に頼りづらくなるので、場合によっては生活保護を受けずに餓死するようないたたまれないことが起きるし、迷惑をかけたくないという思いから孤独死が無くならない。

 

一方で、中国社会にも自殺があることを知った。

当たり前だが。
だが、これまで付き合ってきた中国人の友人や現地の書物、彼等の人生観からすると、自殺という概念は無い、というのが僕のイメージだった。

 

友人に言わせれば、日本ほどではないものの、「エリートの自殺があるよ」ということらしい。

 

考えてみれば、あれだけの人口の受験戦争を勝ち抜き、最高峰の大学に入学するだけでも物凄いことだが、そういうエリートでさえ、就職できない、という現実があるそうで、それに敗れて心が折れるのも納得ではある。

 

中国では政府が、起業家を支援するような仕組みが出来つつあるようで、ただそれは、増え続ける就職希望人口を既存の企業では受け入れが出来ないためだ、という見方もある。
それに、世界第二位の経済規模になっても、なぜか日本企業に就職したいという中国人も多い。

そういった、限られた網の目から零れ落ちたエリートは、初めての挫折を味わって、自殺をするのだという。

 

とにかく、図太さにかけては世界一だと思っていた中国人に、まさか自殺という選択肢があるとは驚きだった。


自殺をする人は、本当は他の選択肢が幾つもあるのに、そういうモノは排除してしまったのか、あるいは最初からその人にはそのような選択肢がないのか。

いずれにしても勝つか、しぬか、みたいな二択しかないのだろう。

 

二択は厳しい、二択だとしぬひとはたくさん出てしまう。

二択ではない、違う選択肢を、もっともっと見つけられるような世の中になって欲しい。

それが多くの人間の見本になるのだから。

迷惑をかけて助け合う中国社会と、迷惑をかけない日本社会

先日、中国で仕事をしている友人と久しぶりに再会し、その生活ぶりなどを聞いた。

割と田舎の方に住んでいると話し、昔の日本人のような人間が今も多くいる、と彼は話した。

 

外国人に対して特に親切にしてくれるそうで、困ったことが何かしらあって、それに関して友人が頼みごとをすると物凄く、快くやってくれるのだそうだ。

それに関して礼を言うと、「なぜお礼を言うの?当たり前のことじゃない」と、驚かれるらしい。

 

日本では、何か他人から施しを受けたら必ずお礼をするのが一つの礼儀だが(失われつつあるようだが)中国ではそれが、ある程度の親しい中であれば当然のことだという。

また、相手に何かをお願いする、という行為は、"あなたとは深く付き合っていきたい"ということの証のようで、お金の貸し借りも、信頼できる人からしかお金は借りないらしい。

 

「俺も現地の友人に金を貸している。日本では違うよね、友人からお金を借りてはいけないから」
「日本では他人に迷惑をかけない、という社会だけど、中国では迷惑をかけながら助け合って生きていく」

 

そう友人は話したが。
それが本当ならば、常識的な概念がひっくり返るようなことだ。

 

面白かったのは、中国人が持つ日本人のイメージだ。

「勤勉で真面目で、あまり本音を言わない」ということらしい。

勤勉さや真面目さという点では、よく言われることだが、ドイツ人と日本人は似ていると言われるからそれに近いのだろう。


だが本音を言わない、というのはまさに日本人。

 

「例えば誰かからモノをもらって、仮にそれが自分が欲しくないモノだったとしても、日本人は礼を言って受取り、拒否をしない。中国人はいらないものはいらない、とハッキリ言うから、この話をすると驚かれる」

 

だから、現地で日本語を勉強している学生は、二人一組になって日本語で話し、お互いの発音の確認をするのはもちろんのこと"相手を褒め合う"ような授業も行うそうだ。

あまりばちっとハッキリ発言すると、日本社会では毛嫌いされるからだろう。

 

「でもそうすると、相手に褒められても、"それは本音ではないんじゃないか"と、混乱させてしまうんじゃないかな」と友人は話す。

ただでさえ文化や慣習が違うのだから、日本人特有のこの空気を読む的なものは、教えるのは確かに難しい。


とはいえ、中国びいきの友人は日本の悪いところが目につくようだが、僕はそのようには思わない。
日本では、他人に迷惑をかけない、という教えと、困っている人がいたら助ける、という概念もあった。

 

今の時代は"どう生きるか"という概念に個人も日本全体も混乱していて、誰もが余裕もないから、それを忘れているだけだ。

 

いずれにしても、日本全体を覆うこの行き詰まり感と閉塞感は、何とかしなければならない。

 

それには温故知新ではないけれども、もう一度原点に立ち戻り、今までのやり方を根本から変革していくことが必要なのだろう。

考えもしなかったことが収入につながる

 

 

10年前にはユーチューバーという言葉は無かった。

 


例えば、この太めの女性。

 

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ひょんなことからチャットを始めた。

世の中には太めの女性を好む男性が割といるようで、太めの女性と話したい、という需要に彼女は応えた。
その中でも人気だったようだ。

 

そして一人の男性と交際を始め、その彼氏にウェブモデルを勧められ、そのままネット上でビキニ姿になったり、食べる姿を撮影してネット上のその動画を公開するようにした。

会員になるとすべての動画が観られるという仕組みにしたらしい。
太っている女性が、ただ、食べる姿を好んで観る人間がいるのも驚きだが、月額、一人14ドルの料金設定とし、多い時は数千人の会員数がいたようだ。

 

英国の新聞にも取材を受け、一躍有名になったものの、そこから様々な誹謗中傷が彼女を襲い、今はそこまで稼げないという。


とはいえ、彼女は自分の特長をいかして世の中の需要を埋めたのだ。

自分を一切変えることなく。

 

身に付けていないものを嘆くよりも、既に持っていて、なおかつ自らが無理をしないでも収入に繋げられるような、そんな選択肢を見つけられる発想が必要なのかもしれない。

 

そうすればあんなにあくせくしなくても、もっと楽にお金を稼げる。

何かをしながら日本語吹き替えで映画を観るくらいの忙しい時代

我々は大変忙しく、全ての事にスピードが求められる時代なので映画をじっくり観れる時間は殆ど取れない。

取れても日ごろの疲れで寝てしまう。

あるいは、何かしら手作業をしながら(例えば家事とか料理とかその他)でないとTVも観られない。

 

これが女性なら同時進行で複数の事が行えるが、男の脳は何かをしながら、もう一つ違う作業を行ったりすることが基本的には出来ない。

 

試しに、ゲイではない男性の同僚に、彼がメールを書いている最中に何か話しかけて見てほしい。
多くの場合、聞こえていない、聞こえていたとしても回答は難しいので、生返事しかよこさない、真面目な人は手を止めてこちらを見てくれる。
(僕の経験上、ゲイの人は一度に3つから5つくらいのことが出来るからこれに当てはまらない)

 

また、自分の場合に置き換えても、例えばサッカー中継に熱中している横から恋人に話しかけられ、ついつい怒りをぶつけてしまった経験を持っている男性もいるだろう。


とはいえ、これだけ煩雑な時代になると、スマホ片手に仕事、家事、恋人との愛の時間を過ごし、更には自分だけの余暇の時間も生み出すとなると到底無理だから、同時進行がどうしても必要だ。

 

娯楽として映画を楽しみたいなら、やはり重要になってくるのが、日本語吹き替え版だ。

僕も時間がふんだんにある時は字幕でしか観ない方だったから、日本語吹き替えのあの、変換のおかしさというか、オリジナルの言語の熱さが伝わらない感じが嫌だった。

 

でも、利点はある。

 

何かをしながらでも、日本語なら耳に入ってくるので、映画を中断することなく、しかもストーリーが途切れることなく頭の中に割としっかり入っていて最後まで観れる。

(人によっては練習が必要)

もちろん、感動のシーンでは、マンガを読みながらもこちらも涙を流すことが出来る。
エロ動画を観てオナニーをしながら、違う動画を観ることだって可能だ。

 

セックスにしたってそうだ。

男が懸命に腰を振っている下で、女がスマホを持って友人とラインしている時代だし。


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成功哲学の本が売れている今の時代、日本でもわずかながら音で試聴する自己啓発もまだ残っている。
アメリカでは、いまだに成功哲学のテープやCDが日本以上に販売されているようだが、それは何かを同時にすることが出来る、というビジネスパーソン向けの一面もあるのだろうが、どうやら字が読めない層が一定数存在することも理由らしい。

 

日本も学力のレベルは一部で低下がみられるので、もしかするとそういう層が日本語吹き替えを好んでみているのかもしれない。


だが、これだけ何もかもが便利になったのに時間がいつもなくて、もしかすると字が読めない人が一定数いる、というのはおかしな話だ。
本当は、必要なことを怠り、必要のないことをやっているだけなのだろう。


竹中直人のギャグではないが、泣きながら笑うような、忙しい人間が増えた。

もっと不義理でいいと思います

相手の要求をそのまますっぽりと心に入れてしまうと非常に疲れることがある。

人間は、何かしら自分以外の他者に対して"こうして欲しい"と期待を寄せるものだ。
近しい人間だろうとそうでなくても。
それは自然なことだし、分かる気もする。

 

だがこうして欲しいこうして欲しいという要望をとめどなく聞き入れると、いつしか、なぜか苦しくなる。
苦しくなるのはなぜか、それは無理をしているからだ。
自分の本音とは別に相手に合わせているからだ、相手に好かれようとしている、とも言い換えられるのかもしれない。

 

そうして聞き入れているときの更なる弊害は、"自分がこんなに献身的にやっているのだから、他もそうするべきだ"という姿勢で第三者に接してしまうことだ、これが最もいけない。

 

嫌だと思ったことはやらない、引き受けない、それが一番。
そうしないと、次第にどこに自分の本心があるのか分からなくなる。

 

だがここで問題なのが、言葉の持つ強制力というか、縛り。

第三者が自分に対して、善意悪意に関係なく投げかける言葉には、多くの場合強制力と縛りのような力を持つ。


例えば、友人同士においてお誘いを断ったりお願いを断ったりすると、

「あなたって冷たい人ね」

「お前がそんなに酷い奴だとは思わなかった」


時にそのような言葉を投げかけられることがある。


親子関係でもそうだ。
子を持つ親が折檻をするとき、

「こんなことして!あなたは○○でどうしょうもない子ね」

「どうしたの、あなたらしくない、こんなことして」

○○の中には概ね刺激的な言葉が入るが、何かしら子供に対しての"印象付け"のようなものを行う。

○○の間には、"そうなって欲しくない"という言葉が入るし、あなたらしくない、という表現は、その行いと逆の行為がその子にふさわしいのだという意味が込められている。


この発せられる言葉に共通しているのは、相手をコントロールしようとする強制力のようなものだ。
時には同情や心情に働きかけるずるいやり方もある。


もちろん、耳を傾けるべき言葉もある。
時には反省も必要なのかもしれない。

 

ただ、そういった、"自らに何かを要求するを言葉"には、思考を占有するくらいの強さがあり、時には罪悪感が心を縛り付ける。
自分は冷たいのだろうか、酷い人間か、人には温かみを持って接していたいのに...。


そしてそのような気持ちで、他者の要望を聞き入れても、自分の心に嘘をついているので、決して良い結果は生まれない。

 

だから、もっと不義理をして良いと思う。
僕なんか不義理をされてばかりだし、不義理をした方は何とも思っていないことが多くて、それにしたって僕が勝手に不義理をされた、と、思っているだけかもしれない。

 


インドでは「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、他人のことも許してあげなさい」と教えるそうです

 


乙武洋匡氏が言ったようだが、それくらいじゃないと最近の日本の窮屈な世界では息苦しくてやっていられない。


それから、自分を支配しようとする言葉は強烈な力を時には持つので、それから逃れる自分なりの"言葉"と強さというか、図太さをもたなければならないと思う。