誰にでもいい顔は出来ない、結局は自分の問題

本当は行きたくないのに断りにくいから参加したり、相手がそう望むからそのように振る舞ってみたり。

 

「ほかに迷惑がかからないように」「邪魔にならぬように」と、いつも自分の気持ちばかり押し殺して、我慢して、わがままも言えない。

 

そう思っていたのだが、それは間違いだった。

 

上記の事は自分以外の他者のことを考えているようで、


"相手に良く思われたい"

"良く思われながらも、嫌なものは参加したくない"

"嫌われたくない"


ということの表れであり、見方によってはこれは自己中心的な考えだし、わがままともいえる。


本来、相手に良く思われたいと考えること自体が自分本位であり、それは時と場合によって(例えば社交的な性格を求められる場所では)いい方向に働くこともあるだろう。

 

だが、八方美人という言葉があるように、全てに良い顔をすることなんて不可能で、何らかの行いは必ず誰かの反感を呼ぶ。

必ずだ。

 

それは、自分の行いが誰かのデメリットとなるからであり、反面、他の誰かのメリットにもなり得ることを意味してもいる。

 

どんなに四面楚歌の状況になって、世間様、それこそ日本中といっていいくらいにある特定の人間が見放されているようにみえても、一方では、他の一定数の人間がその人の事を支持している訳であり、全ての人に好かれることは出来ないが、同時に、全ての人間に嫌われることもまた難しいと言える。

 

であるならば。

であるならばだ。

 

自分を一切取り繕わず、駄目なものは駄目、良いモノは良い、出来ないことはできない、と、そういう意思表示が重要になる。


僕は誰に何を言われても平気なタイプだと自分は思っていたが、実際はそうではなくて

 

"嫌われたくない、良く思われたい"

 

という、俗物の塊のような、単なる自己中人間だとようやく気付いた。

身を持って体感したのだ。


だが、そうして作り上げた人間関係が素晴らしいものかというと、決してそうともいえない。


むしろ、大事な選択を迫られた時などは、その重圧と精神的ストレスで頭がいっぱいになるし、ひたすら苦しい思いをする。

 

その間ずっと、下らない事を考え続けているのだ。

 

"嫌われずに、良く見られたままで、自分の我をどうやって通すか"

 

という点、それだけを。


この生き方は苦しい、なぜなら自然体ではないから。

常に演じようとしているし、しかも、決して素晴らしい演技だとは思われていない。

ただの独り相撲で、はたからみても滑稽でしかない。

 

"誰が何といおうと"


という言葉は今や良く聞かれ、自分の事を優先する、自分ファースト、みたいな時代になりつつあるが、だがこれほど、自分の筋を通して人生を生きていくのも難しいことはない。

 

一切取り繕わずに自分を優先させる人生はなかなか容易ではない。

だがそれが出来ると、人生はグッと楽になる。