チャンスの女神は前髪しかなくて

気が付いたときには走り去ってしまっている、女神の後ろに髪はないので、前髪を掴むしかない。

あまりにも有名な言葉。

千載一遇のチャンスは突然訪れて嵐のように走り去っていくから、つかみ損ねて、あとで後悔しても遅い。
概ねこういった意味合いだろうか。

"チャンス" という言葉には、様々な表現がある。


"人生には3回チャンスがある"

"失敗をチャンスに変えろ"

"ピンチのあとにチャンスあり"

"災い転じて福となす"


実に掴みどころのない言葉ばかりだが、最近、"チャンス"を逃したかもしれない、という出来事に出会った。


僕がずっと異動したかった部署に申請を出し、その願いは通らなかったのだが、別の部署でキャリアを積む機会が舞い込んできた。

"どうしてもいきたい"

という部署ではないし、異動を受入れれば、僕があまり気が進まない都市圏に移り住むことになる。

だが、今の部署は墓場といわれていて、そこから脱出することは相当な困難を極めており、僕も五年ではきかないくらい同じ部署で
同じ仕事を続けていて、さすがに精神的にも参っている段階で、その話がきた。

いきたい部署ではない事、自分が本来望んでいる仕事のキャリアが積めそうにない事、とにかく、今の場所を捨ててまで
飛び込んでいけるようなオファーではなかったことは確かで。

「いけるの?いけないの?」

と詰め寄る上司を前に、僕は即答できずに考えさせて欲しいと答えた。



数日経ち、その上司は昇進し別の部署を統括することになり、僕が彼にキャリアの相談をすることは出来なくなった。
つまり、流れてしまった。


昔、海外でキャリアを積んだやり手の外国人と話したとき、


「"イエス" という言葉には大きな力がある。 
そこで "ノー" と答えるのと、 "イエス" と答えるのとでは、その後の結果が全然違うものになる。
だから君は、"ノー" と答えるときは良く考えなければならない」


確かこういったニュアンスの話をされたことがある。


一つ目の返事で"ノー" と答えると、恐らく、その後かなりのチャンスが遠ざかる。

だからもしかすると、最初の答えほど、慎重にならなければならない、ということも彼は伝えたかったのかもしれない。

今となっては確かめ術もないが、少なくとも今僕はようやく、同じ会社で他の道を選択できるところまでは到達して、その機会も確かにもらった。


だが、ただ、"イエス" と即答できなかったために、話そのものが流れてしまった。



人間万事塞翁が馬ともいう。


果たしてチャンスだったのかどうか、実はこれから、チャンスが訪れるのか。

チャンス、という言葉は実に悩ましい。