心の中には何かある、だれも奪えないある物が
希望。
ショーシャンクの空にの名シーンだが。
これほどまでに閉塞感が漂う日本で生きていると、希望が見い出し難い。
グーグルで「人生 希望」を検索すると、希望が見えない、ない、持てないといった否定的な言葉が続く。
僕自身も何かに疲れた時には、否定的な言葉ともに人生について、を、グーグルで検索する。
たが当然そこに答えはない、あってもインスタント的なものばかりだ。
アウシュビッツ強制収容所において収監された人々が最も多く亡くなった日は、クリスマスの日だという。
それは、「クリスマスの日にはきっと家に帰れるだろう」という、人々のかすかな希望だけが、日々の過酷な日常から彼等の心を解放する唯一の理由だったが、果たしてクリスマスの日、に帰宅できないという事実は彼らの希望を打ち砕き、それを知った多くの人間が何らかの病気で命を落とすことになった。
希望は、それくらい人間の心に多大な影響を及ぼす。
希望。
とはいえ、本来であれば多くの人間が食うに困らない生活を送っているこの日本で、希望を持てないのはおかしい。
誰かが、何かが、それを奪った。
犯人は自分自身なのか、外的な要因なのか。
村上龍氏の小説、希望の国のエクソダスで、中学生が「この国には何でもある、ただ、『希望』だけが無い」と話すシーンが描かれていたが、もう随分前から日本人には希望がないと言われている。
希望とはそもそも何なのか。
希望
・未来に望みをかけること
・こうなればよい、なってほしいと願うこと
・望み通りになるだろうというよい見通し
『希望』という言葉には、比較的明るいイメージがつきまとうが、だが希望の話をすると疲れてしまうのはなぜなのだろうか。
食べるために自分自身すら軽蔑している仕事に従事し、昇進や給料が上がる見込みもない。
見渡せば自分だけではなく誰もが同じ。
仕事から帰って来れば疲れすぎて何もできず寝るだけ。
休日もそう変わらない。
この先何かが劇的に変わって、爆発的に自分の人生の歯車が回り始め、思わぬところから大金が転がり込んできて働かなくても良くなって・・・。
そんなことは起こりうるはずがないし、そもそも、そういう良いイメージすら抱けない。
「想像、イメージできることは実現出来る」
というのは本当で、だが多くの場合はイメージすることすら困難なため、何から手をつけて良いのか分からない。
だから当然何も変わらない。
そうなると、想像力がない、何かをイメージする能力がない、ということは、希望がないのとイコールになる。
つまるところ、自分の心がけ次第なのだ、という結論にはなるのだが、心構えを変えたところで、今から現実が変わるわけではない。
だから、人は疲れてしまうのだと思う。
経済がぐんぐん成長しているときには、日毎に自身の生活水準だって目に見えて変化が訪れるので、誰もが希望が持ちやすく、そして元気だ。
東南アジアの、それこそまだまだ現状は貧しいが開発途上にある国、を旅行してみればわかるが、彼らは金はないが希望に満ち溢れている。
本来は誰にでもあるはずのもので、生きる糧になるはずのものが、なぜか、無い。
探せば見つかるのか、見つけ出せる類いなものなのか。
そもそも、手の中にあって、分からないだけなのか。
だが、そんなことを考える時間も無いくらいに忙しいし、何より疲れすぎて思考も停止してしまっている。