渡辺美樹という男

ミャンマーから成田空港に到着した10/27/16、国際線の到着ロビーから出ていくと
そこにはワタミ創業者で現参議院議員渡辺美樹氏が立っていた。

秘書のような男性がカメラ片手に渡辺氏の近くに待機し、更に少し離れたところに
カメラを持った男性がスタンバイしていた。

一瞬、僕が乗ってきたミャンマーからの運航便に、その国の大物が乗っていて
秘密裏に渡辺氏と会合を持つのか、と思ったが、そうではなかった。

 

 

 慈善活動が有名でもある同氏。
この渡辺氏と僕は、10年ほど前に面識がある。

 

正確に言うと、ワタミフードサービスだった当時、僕は同社から内定通知を受け、
内定者合宿という名の、不眠不休の研修に参加したのだ。

それは二日間の日程で、初日はロクに寝ずに理念研修とディスカッションを行い、二日目の夕方、本社で渡辺美樹氏の話を聞く、という内容だった。


だから、渡辺氏は数多くいる内定者に対して話をしたわけで、僕の存在を認識している訳ではない。

 

当時は今のように“ブラック企業”に指定はされていなかったし、その言葉自体も
2ちゃんねるの一部のユーザーに呼ばれる程度だった。

 

では、この渡辺美樹という男は、一体どういう男なのか。

 

渡辺氏は佐川急便で働いて貯めた300万円を元手に居食屋和民を創業し、わずか10数年の間に、同会社を一代で外食産業の大手一角に成長させた、というのは有名な話。

農業分野への進出と、介護護事業への参入、経営多角化を進める同氏の手腕にも注目が集まった。

 

それはいわゆるメディアの顔で、僕はこの記事で称賛も批判もしないが、内定者合宿当時の記憶を紐解き考えてみる。

 

渡辺氏は経営手腕もさることながら、その語り口には当時から定評があり、カリスマ性に満ち溢れていた。

 

「皆さんは何のために働くのか」

「夢に日付を入れれば、必ず叶う」

 

様々な言葉は当時の僕も含めた多くの20代前半の若者を魅了してやまず、今でこそ信じられないがその講演を聞いて涙を流す者もいた。

 

同氏の話で今でも覚えているのが、“3万円の人生”という話。

理念集に掲載されていたが、もうどこかにいってしまったので正確には思い出せない。
渡辺氏が合宿最終日の夕方、本社で語った内容を記憶をたどって書いてみる。

 

「人間の寿命は延びました、今や殆どの人が80歳まで生きることが出来る時代です。
80歳。3万円の人生という話を皆さんは知っていますか。
80歳が寿命だとすると、365日かける80で、29,200日、まあ30,000日としましょうか。
私が思うに、人生は砂時計のようなもので、その中に1円玉が30,000円分入っているんです。
で、人生を1日、1日生きていくと、1日ごとに1円、こう、砂時計から落ちていく訳ですね。
1日、1円だけ落ちるなら良いんです。
ところがこの中に、一つだけ金貨があるんです、そう、一つだけ。
これが、いつ落ちるかわからないし、明日落ちるかもしれないし、1年先なのか10年先なのか、分からない。
この金貨が落ちると、残りの1円玉全てが、“ザザー”と、落ちるんです。
つまり、それが“死”という事です」

 

このような話をした。

 

その後の事は正確には思い出せない。
ただ、研修後の疲れた脳には同氏のカリスマ性とそこからもたらされる刺激的な言葉が我々を鼓舞し、そして精神に何かしらの影響をもたらしたのは間違いない。
泣いている者もいたし、寝ている者もいた。

 

僕は結局、そこまで猛烈には働けないという堕落した考えから内定を辞退し、あまりレベルの変わらない外食産業の違う会社に入社した訳だが、ワタミフードサービスに入社した友人二人は、壮絶な働きぶりだった。

 

夕方から翌朝5時、6時まで働き、同氏の著書を読んでレポートを必ず提出したり、
ボランティア活動に従事したり、時には営業報告会で本社まで足を運び、終わると同時にそのまま仕込みのために店へ直行。

 

いつ帰って、いつ食べて、どのくらい寝ているのか?
と思うくらいに友人二人は働いていた。

 

あれから10年以上経ち、一人の友人は自営業、もう一人は、ネットベンチャー企業御三家の一角に転職。

どちらも比較的に経済的には恵まれている。


片方は「あの会社ではいろいろと学べた、感謝している」と話し、もう片方は、「地獄だった、渡辺美樹はひどい男だ」と話す。

 

繰り返すが、渡辺氏を称賛または批判したいわけではなくて、同氏の人物像と生き様、そしてその影響を受けた周りの人間のことについて考えてみたかったのだ。

 

渡辺氏自身もこの10年の間、多角経営を進めるやり手経営者としてきらびやかにメディアに登場し、慈善活動を行い、学校を創り校長を務め、東京都知事選への出馬も果たす一方、ブラック企業の創業者としての顔を持ち、そして参院議員として政治家への道を歩みを進めるも、創業した会社は営業赤字が続き、ついに昨年は介護事業を売却。

 

何とも振り幅の大きな人生だが、渡辺氏はまだ50代。


カンボジア人学生とともに成田空港を後にする同氏の背中は、当時と特に変わりは見られなかった。