数字の羅列となってしまったお金の世界で異なる価値観が共存する
昨夜、僕の夕飯は460円の弁当だった。
なんてことない弁当だが、安い金額だし、出来立てなので美味しいし満足度も高い。
食べている時にふと、外資系金融機関のトップの高額報酬が取りざたされたとき、その報酬額が大体46億円くらいだったことを思い出した。
数年前に読んだ記事だからすぐには探せなかったが、以下の記事があった。
為替レートによって円換算は左右されるから、このリストの幹部誰かには該当したはず。
こうして考えてみると、金のある業界は今も昔も金融であることに変わりはない。
1日で交わされる金融取引高は約1420億ドル。
その中でも、ウォール街に勤める金融マンはその賞与額だけで285億ドルと桁違いで、イエメンのGDPくらいに相当する。
だが普段、イエメンのGDPなどに誰も注意を向けないはずだ。
シリコンバレーで働くIT社員の平均年収は19万5000ドル。
単に目についた金額を列挙したにすぎないが、上記の例でいえば、高額報酬を得た外資系企業の幹部クラスは、実際にその数十億円規模のお金を見たことも、また実際に見ることも出来ないはずだ。
どのような形で提示されるかは分からないが、実際に現金を目の前にポンと出して、「これがあなたの報酬です」とはしないだろう。
数字が記されたなんらかのステートメントで確認することになるはずだ。
庶民的な漫画として人気を誇ったナニワ金融道の中で、日本でかつて問題視されていた住専問題における6850円億円の税金投入について取上げる場面があり、6850億円という金を、機械なしで一人の人間が数えるとなると、実際にはそんなことは出来ないという内容が描かれていた。
100万円を一人で数えるのに大体1分時間を要するようで、1000万円だと10分かかる。
同じ要領で考えていくと、6850億円というのは飲まず食わずで一人の人間が数えても475日かかる、という内容がナニワ金融道で描かれていたもの。
「見事勘定できたら6850億円くれてやるといわれても、世界中の誰一人として不可能な金額なんや」
ナニワ金融道では実生活に基づいたお金のやり取りを赤裸々に描きつつ、一方ではお金の本質を突くものとして非常に優れた金融漫画だったが、上記の例を適用してウォール街に勤める金融マンの賞与総額を数えようとしても、もはや実際には人間が金を数えることは困難を極める天文学的な数字となっていることが分かる。
外資系企業幹部への高額報酬総額も同様だ。
昨年騒がれた東京オリンピックに要した資金についても同じ、もはやニュースにも挙がらなくなってきたが。
こう考えると、今や金は数字の羅列となってしまった。
数字の羅列に過ぎないという意味では宝くじも同じであり、外国で高額宝くじに当選した当選者が、最終的には自ら命を断ったり、あるいは身内に命を奪われたりといった末路を辿るケースもあるという。
いずれにしろ、僕が460円の弁当を食べている一方で、ステートメントに記された、数十億円、数百億、数千億、それ以上の桁違いのお金が右から左に流れていて、この両方のお金の流れが同じ世界で起きており、かつ根本は繋がっている事象であることに不思議な感覚を覚える。
全く矛盾する幸福感を持つ人が、隣り合わせで生きている
HONDAのNEW CIVICのCMで流れるセリフだが、それは、お金の流れとそれら一つ一つが織りなし創り上げれた世界についてもいえることだ。