死生観を持って生きることと刹那主義

死生観を持っていきることは難しい。

メメントモリ

とか、

今日は残りの人生の最初の一日


だとか、絶対的な死に対して、美的な言葉や心地よいフレーズはあちこちに出回っている。


だから君も死ぬ気で生きてみろよ


こういった言葉の空虚さといったらない。

目の前にあるのはなかなかに厳しい現実な訳で、死ぬ気になったところでどうにでもなるわけでなし、むしろ死ぬ気になんてそうそうなれない。


人間はそう簡単に命を賭けたり投げ捨てたりできないものだ。

試しにビルの屋上にかけ上がってみればいい、飛び込むなんて相当な勇気がいることだってわかる。


そうすると、死ぬ気にはなれないわけだから、ゾンビのように生きていくことになるわけだが。


いったい、死生観を持って生きることは可能なのだろうか。

このブログで取り上げたが、とある山奥で遭難し絶対的窮地に追い込まれたところを奇跡的に救出された、多田さん。

何としても生き抜こうとする彼の強い意思は、彼をもう一度この世に戻し、その様を描いた番組は全国的にもかなり反響があったようだ。

そんな彼がインタビューに答えていたのは、

「¨¨あんな目に遭ったから怖いことなんかないでしょって、よく言われるんですけど、怖いことは怖いし、嫌なことは普通にあります」

と苦笑していた。

死生観を持って生きているのかどうか、多田さんの様子からは垣間見ることは出来なかったものの、彼は当時付き合っていた彼女と結婚し、女性との間に子供も授かっていて、幸福そうにはみえた。



一方で、死生観とはまるで縁のなさそうな人たちもいる。


昼間からパチンコに興じている人々だ。
僕はパチスロ、その他ギャンブルには一切手を出さないのだが、人間観察が好きでそういった店に時たま出入りする。

平日の、それも「ド」真っ昼間から熱心にパチスロに興じている彼等は一様に、あたかも時間は無限に存在するかの如く延々と台に向かい続ける。

多くの人の顔はゾッとするほど無表情だ。


とはいえ、それはそれで「やりたいこと」をやって、充実しているのかもしれない。

彼等を見ていて思うのは、人生を刹那的に生きている、いわゆる刹那主義。

その瞬間の快楽を求めるために全力を尽くす、というような考え方だが、ふと思ったのは、死生観と刹那主義の線引きは曖昧だということ。


例えば、パチンコばかりしていて親の死に目も会えなかった人を知っているが、本人からすれば案外幸せなのだろう。


「いつ死ぬか分からないのだからパチンコをする」


「いつ死ぬか分からないから家族との時間を大事にする」


どちらも実はそんなに差は無く、違いを見いだすことすら意味のないことなのかもしれない。


以前、タイ刑務所から帰国した竹澤氏に、死に対しての考え方を質問してみたが、その回答からは死生観や刹那的のようなものすら感じられなかった。

あのくらいになると、そういった概念から超越してしまうのだろうか。

ちなみに、竹澤氏は獄中生活中に母親を亡くしている。