また急いでしまった

 

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急に海に行きたくなり、夜勤明けの眠たい目をこすりながら飛び出した先は海。

 

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この世の楽園だ。

いつまでもこの風景を眺めながら、無駄に時間を過ごすのも悪くはない。

 

が、僕は急かされるように日課のマラソンに入ってしまった。

海岸沿いを走るのでそれはそれで気分は良いのだが、もっと、あの景色をだらだらと眺める時間をもっと取ってもよかった。

 

いつもそうだが、特に何か予定が入っている訳ではないのに、時間を気にせずにその場所や風景、時間を愉しむ、という些細なことが出来なくなっている。

 

 

僕は今の会社に中途で入社し、新卒とは扱いが異なることから、自分で自分にスポットを当てるために様々な事をしてきた。
一人で何役もこなしたし、宴会部長というのか、下働きの泥臭いこともやったし、眠い目をこすりながら資格勉強にも励んだ。

 

一方で企業側も、新卒はまだしも中途を育てる余裕なんかないから、"自分で自分の能力を伸ばせ"とばかりに突き放しながらも、一人で何役をもこなすような能力を求める傾向にある。

 

例えば企画書を書きながら、電話口で営業をかけ、頭では上司に対しての報告を考えつつ、隣の同僚にも目を配り、飲みの席では場を取り仕切る細やかさ、といったような。

 

出来ないわけではない。

 

だが、かなり無理があるし、無理をしている。

そんなことを常日頃からやっていると、何かをしながら別のことをしなければならない、といった強迫観念のようなものが出来てしまい、上述のように、せっかくの美しい光景を目の前にしても、それを見ながらマラソンをしよう、だとか、本当に下らない行為に走ってしまう。

 

地方で電鉄会社を経営する60歳近い経営者がとある日のブログで、夕日が沈む瞬間の幻想的な光景を目にし、深い感動を覚えたと語りつつ、

 

「あと何回、この景色を見ることが出来るのか」

 

と考えたという。

ある程度の年齢に達すると、自身の目の前に広がる光景が、残された人生において数えられる程度しか見ることが出来ない、あるいは二度と目にできない、と思うようだ。

 

その瞬間のその出来事や事象、目の前に広がるものは、もう二度とかえってこない。

 

だから、本来は他の事に手を付ける暇なんかないし、そうすべきでもない。

 

僕は、大事な瞬間を、別の事に気を取られて見逃してしまうことがあまりに多すぎる。

人生の残り時間はまだまだあると思うからそうしてしまうところもあるのだろうが、年をとったらとったで、出不精な僕はきっと外出するのが億劫になり、そうなると、あの美しい光景にはもう出会えないことになる。

 

「時間泥棒」をテーマにした、ミヒャエル・エンデの "モモ" という本がある。

小学生の時分の指定図書で、活字が苦手だった僕もひいひい言いながら読んだことを覚えているが、正直、あの時はこの本が意味することなど全く分からなかった。
小学生なんて時間ははいて捨てるほどあるから、盗まれたくらいではなくならないものだと思っていたのだ。

だが、"モモ"という作品は、あまりに合理化、効率を追及する人間への警笛であったことが今なら分かる。

 

そして僕も、本に登場する "灰色の男たち" によって、気付かぬうちに時間を奪われていた。

 

"灰色の男たち" は、企業であり社会であり、古い価値観や誰かに詰め込まれた先入観であったりもするし、あるいは、僕自身が灰色なのかもしれない。

 

どちらにしても、僕は灰色にどっぷり染まっていて、それすら殆ど気付かずに毎日過ごしているのだが、こうした、日常の些細な出来事の瞬間に思い出して我にかえる。

 

そんなことを繰り返しているのだ。

 

なんともったいないことか。