ある一つの事象や行動は、見る人によって全く違う風景が映る

何か事件や日本を揺るがすような出来事だったり、ある種の信念の元に行われた誰かの決断は、他の人間からは全く別の事象として映る。


村上ファンド村上世彰氏においてもそうで、村上氏の著書で描かれる、日本を騒がせた一連のプロキシーファイトは、当人からすれば、コーポレートガバナンスの行き届いていない企業や、保有資産からすれば割安な株価となっている企業に狙いを定め、投資をし、株主価値を高める、企業価値の向上を図るのが目的。

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だがそれは、当時の騒動を見た別の識者によれば、ひと頃日本を賑わせた、ハゲタカファンドを彷彿とさせるような、拝金主義の権化のように映る。


実際に当時の騒ぎにおいて経済学者の森永卓郎氏は、仕手筋を引き合いに出し、村上氏に対して以下のような批判的な記事を書いている。


www.nikkeibp.co.jp


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また村上氏はその著書で、東日本大震災の被害の最中、



下がり続ける株を前にあえて日本株を中心に投資を行うことを決断した



と語っていたが、当時は「震災で多くの人間が亡くなっているのに株で金儲けなんて」という声が上がったことも記憶にある。

ある一つの行動や出来事が、見る人によって全く違う風景が映るというこの不思議な感覚。

かつて僕が勤めていた会社の社長も、社員や他社からは非常にワンマンなイメージが浸透していたが、社長自身もそれを分かっていて、

「会社として最善の選択であると熟慮して決断したことも、他から見れば独断的にうつる」

と僕に漏らしていた。

こうなってくると、何が正しくて何が間違っているという議論そのものが成立せず、その線引きも非常に曖昧だ。


ただひとついえるのは、日本では金儲けが上手すぎる人間は、やっかみや批判の対象として吊るし上げられる傾向にあるということ。

当事者からすればよく分からない理由で気がつけば裁判にかけられていた、というところが本音なのかもしれない。


本当のところは、上手すぎる人間を妬んだり僻んだりするよりは、少しでも盗む方が有益なのは間違いないのだが。


村上氏の著書を読了したのだが、氏が今になって著書を記した理由は、僕の主観では自身の子供やその孫、ひいては子孫のためなのだろうと思う。

村上ファンドの昔のイメージが代々受け継がれていくのを憂慮し、払拭してしまいたかったかもしれない。

まあ僕のような人間には分からない他の理由もあるのだろうが、単純に読み物としては楽しめた。

それ以上でもそれ以下でもなくて、それで終わりなのだろう。