議論するとその後に大抵しこりが残るのは否めない

日本人は人と摩擦を起こすのを嫌がる、議論はどんどん交わすべきだ

 

という考え方と

 

議論はしない方が良い


という考え方があって、これまでは後者の方が多かった印象があるが、これだけ多様性が広がり個性や考え方を重要視したりする風潮が高まってくると、前者の考え方も良しとする雰囲気もある。

 

僕は後者なのだが、最近友人と議論に発展してしまってやはり後味を悪くしてしまった。

 

人から批判的なことを言われるのが僕はあまり好きではなくて、勿論、第三者の意見を取り入れるのも大事だから全く何も聞かないわけではない。

 

これまでは議論をするのも好きでは無かったので、自分の考えは発信せず、相手の発言を聞き、相槌を打ち"そういう考え方もある"という程度の認識で、あまり深く考えずに受け止めていたのだが、そうしていると相手も僕があまりにもハイハイと聞くものだから、次第に自分の価値観を押し付けるようになってきてこちらの考えていることを内容を聞かずに僕をコントロールしようとしていることに気付いた。

 

この、"相手をコントロールしようとする"というのは、本人も気付かずに行っていることがあって僕自身、第三者に意見を求められた時に相手をコントロールしようとしている自分の姿を見て驚いたものだ。

 

そうなると、こちらの意見を相手に向かって発信することも、かなり大事になってくる。

相手に自分の考えを分かってもらわないと、建設的な話が出来ないし、それをしないと自分自身が考えている自分と、相手から見える自分にかい離が出来てしまい、話している内容がおかしな方向にいくためだ。

 

だがこれがなかなか難しくて、どうしても相手を否定したり、反対意見になってしまうものだから、今度は向こうもムキになってどうにかしてこちらを納得させようと躍起になり、最後にはお互いが感情的になって収拾がつかなくなる。

 

先日の友人との会話も、まず僕が先に感情的になってしまい、今度は友人が僕を納得させようとして感情的になり、

 

「日本人は一般論としての話が出来ないから議論が出来ない」

 

と友人は言い放った。

その友人自身も、自分が感情的になったことに気付いていなくて、論点もズレて何の話をしているのか分からなくなっていることも分かっていなかった。

 

 


松下幸之助氏は、何か事を決めるとき第三者に意見を求め、それに黙って耳を傾けたというが、これは実は本当に難しいことだと気付かされる。

何も話を聞かないと良い考えは思い浮かばないし、かといって第三者の意見をそのまま全て自分の中に入れてしまうと、時には相手が自分をコントロールしようとしたり、感情論に発展してしまい何が何だか分からなくなることも。

 

こういった事態を防ぐためには、やはり、議論をしないこと、個人的な主観だがこれに尽きると思う。

 

議論好きの知人を二人ほど知っているが、彼等が議論を始めると周りの人間が離れていくのが本当に良く分かる。

 

どんなに正しくても、その人と一緒にはいたがらないものなのだろう。

 

そういう意味では友人が言うように日本人はまだまだ議論が出来ない国民性なのかもしれないが、そもそも議論がどいう意味を持つものなのかをきちんと把握し、適切な方法と内容と話し方や言葉の選び方で、それを相手に発信できるような人間は果たしてどれくらいいるのだろう。

 

加えて不思議なことに、この知人二人は本当に正論をバシッと言うが、どちらも自身の生き方はいい加減だし、とてもではないが人に何か意見が出来るほどの実効性を持っている訳でもない。