社会人に出ると嫌いな人間と過ごさずに済む逃げ道はある
僕は幼稚園から高校まで特に私立に通ったことは無く、常に公立で親の仕事事情とマイホーム事情によって、住むところも変わってきた。
小学校低学年までは多少のいじめはあったものの、気にならない程度のものだったのだ。
ところが小学校高学年から事情が変わり、転校生がいじめられるパターンにそのままはまってしまい、それが中学三年生まで続いた。
この間の数年くらいはあまりいい思い出がない。
その当時もいじめによる自殺は毎年のようにニュースで報道されていたし、現代にも負けず劣らず凄惨かつ陰湿ないじめは数多く存在した。
そんななか、子供の将来を憂慮して、私立に通わせたり、無理やり住むところを変えて学校区を変更し別の学校へ通わせる親ももちろんいたが、それは例としては非常に少なかった。
そういう意味では、今よりもいじめは深刻視されていなかったのかもしれない。
僕もその類で、親の事情で学校や周りの人間関係が変わったことはあったが、自らの意思でそれを変えることは出来なかった。
逃げることは許されなかった、当時は引きこもりという言葉もその存在も認識されてい
なかったので。
"不登校"という言葉も使われていなかったから、
学校に行かない子供=悪い子
この構図に縛られ、苦しい思いをしている子供は僕だけではなかっただろう。
今も昔も変わらない、この、逃げられない現実に絶望して、未来ある若い人たちが自ら命を断つのは本当に残念でならない。
一方で、社会ではある程度逃げ場を作ることが容易にできる。
例えば、進学できずに働く以外の選択肢が無く、その職場環境が劣悪でかつ人間関係が悪かったとしても、自分の意思で辞める、という選択肢だけは残されている。
引きこもりだってできるし、そのためのコミュニティは今やどこにでもあるし、職を転々として、例え親や周りに何といわれても、逃げ場を作ることが出来るのだ。
人生は短いので、嫌な人間と必要以上の時間を過ごすことはない、というのが僕の個人的な見解。
もちろん、あまりに我が強すぎるとどこへ行っても同じことの繰り返しという懸念事項はあるが、それを差し引いてもなお、逃げ場を作ることには大きなメリットはある。
それに、逃げていくいうちに最終的には似た者同士というか、居心地がいい者同士で固まり落ち着くようになっている側面もある。
そう、社会人になると、逃げる選択肢はかなり有効な手段なのだ。
これが、小学校、中学校のような義務教育となると、そうもいかない。
例えどんなに学習環境が劣悪、いわゆる"グレ"ている生徒が多くても否応なしに関わらざるを得ない。
故に、その影響を受けることは間違いないし、私立に通えるほどの財力が無ければ環境を変えられず、最悪のケースは巻き込まれてしまう。
その後の人生に大きな違いが出ることは間違いない、多くの場合は悪い意味で。
それに、10代前半の多感で難しい年代のころには、友人が何よりも大事で、そのコミュニティからはじかれてしまうと、生きていくのは難しい。
死ぬことそのものよりも、そこに居場所がない、自分の存在が認めてもらいない、そういった精神的苦痛が最も人間にダメージを与える。
社会に出ると逃げ道は幾らでもあるが、学生時分の10代の若い子たちはどうだろうか。