手に無いものを嘆くより、いま手にある幸せに気付こう、という話

友人から以下のメールが届いた。

 


私たちは、ある条件さえ整えば間違いなく幸せになれると思っています。

こうした考えが真の幸福の妨げになるとは気づきもしません。

幸福という概念を手放せれば、すぐに本当の幸福が心に生まれます。

何かの資格や、特定の職業や、ある相手との結婚などが実現しなければ幸せになれない、そう考える若者たちにも出会ってきました。

私たちは自分で幸福の条件を作り出し、それに縛られているのです。

自由な人にはいつでも幸福が訪れます。

これが幸福だというひとつだけの概念にこだわる意味があるでしょうか?

そうすれば幸福は限定されてしまいます。

その概念を手放せば、あらゆる方向から幸福はやってくるのです。

 

 


既に幸せなのだから、まずその事に気付こう。

人間は他者との比較でしか幸せを感じられない生き物だから、まずはそれをなくして
いわゆる世間一般でいわれている "幸せの基準" を捨てよう、という考え方。

 

 

 

"既に幸せなのに、外ばかりみている だから今の幸せに気付いてください"

 

"車の外の女性ばかり見ていたら、助手席の女性に怒られる

だから隣の美しい女性に気付いてください"

 

 

とにかく様々な言い回しがあって、どれもこれも実に心地が良いのが共通点。
自己啓発書などではそういったメッセージが飛び交うしし、またこれが良く売れる。

それは現状に不満を抱いていても、無理して"変わる"必要はないといさめるし、多少なりとも幸せな気分に確かにしてくれる。


ただ、現状のどこかに不満を感じている人間がいたとして、上記のアドバイスや考え方は果たして的確なのだろうか。


人間は確かに他者との比較で物事を考えるが、ただ一方で、"本当に" 助手席の女性に不満を抱いていることだってあるはずだ。

 

無理に "幸せだと思い込もう" といった空気が蔓延していると最近感じるし、勿論それは悪いことではないけど、そのメッセージを真に受けてしまうと、本来は自分自身の深層心理でくすぶる向上心や上昇志向そして挑戦心に蓋をして、せっかくの可能性を自ら閉ざしてしまう結果になるのでは。

 

"いま手にあるものに幸せを感じよう"という考え方は、どちらかというと、安定した仕事、給与、家庭、マイホーム、家族がみんな健康、そういった、今や手にすることがなかなか難しいものを手にしている人々に対してのもので、今日明日のご飯がなくて、手元には本当に小銭しかなくて、仕事がなくて、生活保護も受けられるかどうか分からない人に

 

"あなたでも今幸せですよ、生きているのですから。手にあるものに早く気付いて"

 

と言ったら、その人はビルから飛び降りないだろうか。


万人に向けたものではないメッセージを真に受けてしまうと、大変な結果になる、と言う事を言いたいだけで批判をしている訳ではない。

 

上記は極端な表現だが、とはいえ、最近日本には何だか優しいメッセージが溢れていて、それが現状を変える姿勢を削いでしまう側面もあるように感じる。