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もっと不義理でいいと思います

相手の要求をそのまますっぽりと心に入れてしまうと非常に疲れることがある。

人間は、何かしら自分以外の他者に対して"こうして欲しい"と期待を寄せるものだ。
近しい人間だろうとそうでなくても。
それは自然なことだし、分かる気もする。

 

だがこうして欲しいこうして欲しいという要望をとめどなく聞き入れると、いつしか、なぜか苦しくなる。
苦しくなるのはなぜか、それは無理をしているからだ。
自分の本音とは別に相手に合わせているからだ、相手に好かれようとしている、とも言い換えられるのかもしれない。

 

そうして聞き入れているときの更なる弊害は、"自分がこんなに献身的にやっているのだから、他もそうするべきだ"という姿勢で第三者に接してしまうことだ、これが最もいけない。

 

嫌だと思ったことはやらない、引き受けない、それが一番。
そうしないと、次第にどこに自分の本心があるのか分からなくなる。

 

だがここで問題なのが、言葉の持つ強制力というか、縛り。

第三者が自分に対して、善意悪意に関係なく投げかける言葉には、多くの場合強制力と縛りのような力を持つ。


例えば、友人同士においてお誘いを断ったりお願いを断ったりすると、

「あなたって冷たい人ね」

「お前がそんなに酷い奴だとは思わなかった」


時にそのような言葉を投げかけられることがある。


親子関係でもそうだ。
子を持つ親が折檻をするとき、

「こんなことして!あなたは○○でどうしょうもない子ね」

「どうしたの、あなたらしくない、こんなことして」

○○の中には概ね刺激的な言葉が入るが、何かしら子供に対しての"印象付け"のようなものを行う。

○○の間には、"そうなって欲しくない"という言葉が入るし、あなたらしくない、という表現は、その行いと逆の行為がその子にふさわしいのだという意味が込められている。


この発せられる言葉に共通しているのは、相手をコントロールしようとする強制力のようなものだ。
時には同情や心情に働きかけるずるいやり方もある。


もちろん、耳を傾けるべき言葉もある。
時には反省も必要なのかもしれない。

 

ただ、そういった、"自らに何かを要求するを言葉"には、思考を占有するくらいの強さがあり、時には罪悪感が心を縛り付ける。
自分は冷たいのだろうか、酷い人間か、人には温かみを持って接していたいのに...。


そしてそのような気持ちで、他者の要望を聞き入れても、自分の心に嘘をついているので、決して良い結果は生まれない。

 

だから、もっと不義理をして良いと思う。
僕なんか不義理をされてばかりだし、不義理をした方は何とも思っていないことが多くて、それにしたって僕が勝手に不義理をされた、と、思っているだけかもしれない。

 


インドでは「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、他人のことも許してあげなさい」と教えるそうです

 


乙武洋匡氏が言ったようだが、それくらいじゃないと最近の日本の窮屈な世界では息苦しくてやっていられない。


それから、自分を支配しようとする言葉は強烈な力を時には持つので、それから逃れる自分なりの"言葉"と強さというか、図太さをもたなければならないと思う。