人生には何も期待できない、というとき

僕は独身で、特に何があるわけでもないし、人の役に立っているのかも何とも言えない。

友人が多いわけでもないから、誰かに求められたり好かれている、とも言えないのかもしれない。

誰にも必要とされず、誰もそばにいず、たった一人で食事をしたりすると、さすがに気が滅入る。

 

女性ならば、一人でもどこへでも出かけていくし、何でも見るし何でも食べる。

だが僕は男なので、最近思うのだが女性ほどの強さやしぶとさはない。

 

そうなると、心が閉じこもってしまって身動きが取れなくなることがある。

自分の人生には何も期待できず、絶望感が全身を覆うからだ。

 

そういう時に思い出すのは、ヴィクトール・E・フランクル氏。

もう彼は亡くなったが、第二次大戦下、ナチス強制収容所送られ、家族を含め全て失ったたものの、自身は奇跡的に生還した。

晩年は教授として生涯を送り、その間に著書も出している。

 

氏が提唱したのは、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うのでなくて

「人生は私になにを期待しているか」と問うということ。

 

 

あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。

それは男性と女性でした。

2人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。

2人のいうことはある意味では正しかったのです。

けれども、すぐに、2人のほうには期待するものがなにもなくても、2人を待っているものがあることが分かりました。

その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。

その女性を待っていたのは、子どもです。

彼女の子どもは、当時遠く連絡のとれない外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ち焦がれていたのです。

(省略)

人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。

 


人生の問いのコペルニクス的転換とされる発想の転換と氏は著書に記していて、あまり難しいことは分からないが、生きる意味や価値などを考えていても殆どの場合答えは出ないので、むしろ、人生というものから、自分がなにを期待されているのかを問う。

ということらしい。


気が滅入るといつもこのことを考える。