しぬときは恐怖感ではなく、別の何かが心を支配するのだろうか

追いかけられたり、ころされたりする夢を見ることがある。

寝てみる夢というのは、睡眠が浅いときに見るようで、仕事柄不規則な僕は睡眠が浅くて夢を良く見るほうだ。
楽しい内容もあるがそういったものは記憶に残りにくく、一方でリアルに恐怖を感じ、強烈な記憶に残るのは、追いかけられたり、追いかけられた上でころされる夢だ。

人物像は思い出せないものの、特定の人間に追いかけられる事が多く、性別はすべて男。
ころされ方は、なぜか銃殺が多い。

逃げるに逃げて追い詰められ、どこかの部屋の一角でしんだふりをして倒れこんでいたところを、銃で撃たれる、といった最期が結構ある。
夢占いみたいなものがあって、そのようなしに方は見かけないから、なぜ、こういった夢を見るのか理由は分からない。

とはいえ、夢を見ているときのしに対する恐怖感はなかなかで、撃たれた後に周りが真っ暗になり、何も考えられなくなって、自分が "無" に近づいている、ように感じる。

たが大抵はそこで目が覚めて、深い安堵ともにまた眠りにつくのだが、僕は意識のある人間の最期の瞬間を看取ったことがないので、しぬ瞬間、あるいはしがせまっている瞬間は、きっと恐怖感しかないのだと思っていた。

だが、それはちょっと違うのかもしれない。

TEDという動画で、緊急救命士の男性が以下のような話をしていた。



マシュー・オライリー
「私は死ぬのでしょうか?」真実を答える
Posted Sep 2014
Rated Inspiring, Beautiful

https://www.ted.com/talks/matthew_o_reilly_am_i_dying_the_honest_answer/transcript?language=ja


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これまで 7年間 ニューヨークのサフォーク・カウンティで 救急救命士として働いてきました 自動車事故から ハリケーン・サンディの大災害まで 緊急隊員としての経験も数多くあります

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大抵の人にとって 死ぬこととは― 最も怖い体験だと思います 死を予期できる人も できない人もいます あまり知られていない医療用語に― 突然おとずれる悲運を意味する インペンディング・ドゥームという言葉があります これはもう症状のようなものです 私は医療従事者として 様々な症状に 対応できるよう普段から訓練されていますから 心臓発作の患者が僕の目を見て 「私は今日死ぬんですよね」と言ったとしても 患者の状態を再評価できるよう 訓練されているのです

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クリティカルケアの仕事を通して― この患者はあと数分しかもたないという場面に 居合わせたことが何度もあります そういうとき 本当に何も手の施しようがないんです そんなとき向き合わなければならないのは 本人に自分が死ぬんだということを告げるべきか それとも嘘をついて慰めを言ってあげるべきか というジレンマです この仕事をやり始めて間もない頃 私は単純に嘘をつくことを選んでいました それは怖かったからです 本当のことを伝えたら その人は恐怖のなかで死ぬことになるだろうと 怖くて仕方がない状態で 人生の終わりを迎えることになると

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ところがある出来事を通して すべてが変わりました 5年前 バイク事故の対応をした時のことです バイクに乗っていた人は致命傷を負っていました その患者を診たとき 何をどうしたとしても 助けることはできないことは明白でした それまでの患者と同じように その人も私の目を見て 「僕は死ぬんでしょうか?」と訊きました これまでとは違う選択をしよう その瞬間 真実を伝えようと思いました 彼がこれから死ぬんだということを そして私にはどうすることもできないことを 伝えることにしたんです 彼の反応に私は大変ショックを受けました そのことは今でも忘れられません 彼は安らかに 自分の死を受け入れたという顔つきでした 私が想像していたような恐怖や不安は 彼の表情には存在しなかったのです ただ静かに横たわる彼の目を見たとき 心の平安と運命を受け入れているのだ ということが理解できました その瞬間私は決心しました 嘘をついて慰めようとするのは 私がすべきことではないと それからも 患者の命の最期の瞬間に 何度も立ち会いましたが― ほとんどの場合先ほどと同様に 施す手はありませんでしたが どの人も真実を伝えると同じように反応しました そこにあったのは 心の平安と運命の受容でした これまで数多くこういう場面を経験してきて パターンが三つあることに気付きました

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いつ遭遇してもショックを受けてしまう 一つ目のパターンが 宗教とか文化的な背景に関係なく 許しを乞う というパターン 人によって罪と認識していたり 後悔だったりしますが 罪悪感というのは全世界共通のものなんです かつて年配の男性をケアしました 大変深刻な心臓発作でした 今にも心停止するかという状況で 私も覚悟して機器の準備を進めました そして その瞬間が すぐそこまで来ていることを告げました すると彼は私の声のトーンや 身振りからすでに察していたのです 胸に除細動器のパッドを当てて 迫りくる瞬間に備えていたとき 彼は私の目を見てこう言いました 「もっと子供たちや孫たちと過ごせばよかった― 自分のために時間を使いすぎた」 と 死の瞬間を目前にして 彼が求めたものは 許し でした

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次に 二つ目のパターンですが 二つ目は 忘れないでほしい という願いです 私の思いの中や 愛する人々の思いの中で 人は決して滅びることはないということを 愛する人々の心の中や思いの中に それこそ 私やスタッフ 周りにいる人なら誰でもいいから 自分はこれからもずっと誰かの心の中に 生き続けることを確信したいのです 数え切れないくらいの多くの患者から 僕のじっと目を見て 「私のことを忘れないでほしい」と言われました

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最後に三つ目のパターンです 毎回 私の心にずっしりと重くのしかかる 魂に深く響くパターンなのですが 死に際に彼らがどうしても知りたいこととは それは彼らの人生には意味があり けっして無駄に人生を過ごしたのではない 決して意味のないことに 一生を費やしたのではないということなのです

4:08
この仕事を始めたばかりの早い時期に 電話で駆けつけた ある案件がありました 交通事故で車が高速で激突したため 体が車の中で がんじがらめ になっていました 絶体絶命の状況でした 消防隊が駆けつけて 体を車から出す作業を始めてから 私はなんとか処置をしようと 車によじ登りました その時車の中の彼女が言いました 「もっともっと生きているうちに やりたいことが一杯あったのに」 自分が生きていたという証を残せなかったと 彼女は感じたのです 話を続けるうちに彼女には 二人 養子の子どもがいて 二人とも もうすぐ医大に進学する予定である ということがわかりました この二人の子どもは 彼女がいなかったら決して― 手にすることができなかったチャンスを 彼女のおかげで手に入れることができた そして医者になって人の命を助けるために 医学の道へ進むことにしたのです 彼女を車から助け出そうと力を尽くしましたが それがかなわぬうちに 彼女は息絶えました

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いろいろな映画で目にする人の最期は 恐怖や不安ばかりなので 死ぬ瞬間とはそういうものなのだと思っていました しかし 状況がどうであれ その人の最期という ほんの短い時間の中で やってあげられる本当に小さなこと その人を安心させてあげるという 取るに足らないような小さなことこそ 人の最期に平安と運命の受容を もたらすのだ と思い知ったのです

5:25
ありがとうございました

5:27
(拍手)


これを観ているかぎり、しの瞬間、その人間の心を支配するのは、恐怖感ではなく、別の "何か" だ。
崇高なものであることが多いように思われる。

僕が小さい頃は、まだ、身内がしんだ直後にその亡骸を皆で囲んで故人を悼んだり、時には家族の最期の瞬間を看取ったという話も割かし聞かれたが、今は核家族化が進んでそのようなこともかなり少なくなった。

家族の最期を看取ることにより、その顔つきやしぐさ等から、その者の人生がどういうものであったのか、これまでは多少なりとも想像出来たかもしれないが、今はそれが非常に難しい。

自分がしぬときにしか、そういった気持ちになることができない、他社と共有できない。
しも恐らく希薄なものになってしまった。