寺山修司氏の良さについて、言葉にすることは難しい
芸術肌の知人、友人、業界の人の話を聞いていると、必ずと言っていいくらい寺山修司の名前が挙がる。
「何が良いのか」答えられた人間は僕の周りにはいなくて、彼の作品の殆どに触れた友人でさえも、言葉にしてちゃんと表現することが出来ない。
僕にしたって、書を捨てよ街へ出ようをはじめ、作品や書物に多少なりとも触れたものの、正直言って全く分からない。
何が分からないのかも、分からない。
考えてみれば本人が話しているところや肉声を聞いたことが無いので、徹子の部屋出演時の貴重な寺山修司氏本人の動画を視聴してみた。
以下は徹子の部屋から。
-寺山修司氏の芝居について-
「芝居ってのは、現実では見られないものを観た方が良いですからね。
生まれる前の世界とか、死んでからの世界とか、実際に起らないような出来事とかね。
奇想天外というか、幻想回帰というか、そういう方が面白いと思うんですよね。
劇場まで金払って通って、家と同じような夫婦がどうしたっていうような話を観ても面白くないと思うんですよね」
あれほどまでに想像力を駆使して全くの意味不明の作品を創り上げた根本的なところの、ほんの少しの部分は理解できた気がする。
-家出のすすめという自著について-
「昔は家っていうのは役割があったでしょ、教育的な役割とか宗教的な役割とか保護的な役割とか。家が全部やってくれたわけですよね。
でも今こういう社会になっちゃうと、病気した時は親に診てもらうよりもお医者さんに行った方が良いし、家の中で、親が知らないジョークを無理やり聞くよりも、学校行って、あるいは本を買って自分で読んだ方が勉強になる。
"家の中じゃなければ出来ないこと"はそんなにないんですよね。
だけど、親はこう、子供を自分の部分辺だと思っていてね。
子供はまた子供で親の面倒を見なきゃいけないと思ったり、自分が結婚するころには親をどうしたらいいかと考えていたりするわけですよね。
それで結局、近親憎悪っていうかね、このあいだ人から聞いて驚いたのは、日本の犯罪の40数パーセントは近親間の犯罪ですってね。
こんなアベレージの高い近親憎悪の国は日本しかない。
だから親殺しとか、子供を捨てるとか、そういう家の中で起こる犯罪。
それは結局、他人との付合いが凄く下手だから、家で全て間に合わせようとする。
親は子供に必要以上の期待を持つし、子供は親を利用することだけ考えて。
それでそれがこう、非常にロマンティックな間は良いけれど、そのうちにうまくいかなくなっちゃう。
だからもっとこう、親と友達付き合い出来るか、や、フランクになる方が良い。
だからいっぺんは家を飛び出して、それからもういっぺん付き合い直すことを考えた方が良い」
当時の日本の"家の役割"と"親子関係"と"外の世界"について言及したこのシーン。
この動画は凄く古いものだから、今の時代と背景は殆ど異なるものの、一種の風刺的な視点で日本社会を見ているところは意外だった。
ひたすらイカレタ世界ばかりを追求していた方だと思っていたので。
今でいえば園子温氏の、グロテスク至上主義のような。
-競馬のどういうところが面白いのかという質問について-
「やっぱり、普通の世の中だと、働くと働いた分だけ月給が入ってくるっていう感じでしょ。会社へ入ると、新入社員で入った日から、もう定年までの月給が計算できるような世の中でしょ。
すると良い家に生まれた人は良いけど、そうじゃない人はもう、運が悪かったってあきらめるしかないじゃない。
競馬なんてのは非常にこう、偶然があってね。
こう、全く思いがけない幸運があったりするわけですよね。
やっぱり、世の中で手に入らないような、なんとていうか興奮がある。
中略
当たる時もあるし、外れる時もある。
そうすると素人の人はやっぱり、トータルすると損してますか儲かってますかって聞くんですね。
僕が大体そういう時いつも言うのは、
"芝居観に行ってトータルして笑ってますか泣いてますかって聞かないでしょ"って。
やっぱり、損したくて行くときもあるんですよ。
ただ儲かるんだったらそれだけ馬券買うお金をなんかこう銀行とか、殖産何とか、そんなとこに預けておけば利息は付くわけだけども。
全部なくなっちゃいたいって時もあるし、なんか突然やっぱり儲けたい、って時もあるし。
だから悲劇だけでもつまらないし、喜劇だけでもつまらない。
金払って芝居を観にいくようなもんですね、競馬ってのは」
一般的には、日本人には不確定性を嫌う側面が感じられるが、その中にあって寺山修司氏の、"不確定性を愉しむ"という一面は、当時も今も、日本の中では稀有な存在だろう。
だからいまだに一部の層からは支持されているのかもしれない。
卓越した創造性を持ち、それを言葉や作品に落としこむ能力。
そして不確定性を愉しむ人間的魅力。
そういったところが氏の良さの一部としては挙げられるのかもしれない。
寺山修司氏は、冒頓とした話し方で、多少の青森訛りがあるも、非常に魅力的な男だった。単純に、このトーク番組も面白い。
もう寺山修司氏のような人間はしばらく現れないのだろう。
むしろ、氏の作品を、自分の言葉で話せる人そのものも少ないのかもしれない。