会ったことも無い人に対して行為を抱く
驚きを隠せない衝撃的な事件。
神奈川県座間市のアパートの部屋で9人の遺体がみつかり、白石容疑者が逮捕されてから1週間。被害者の身元の特定が進められている。
警視庁の調べで3人の女子高校生が被害にあった可能性があるなど、若い女性をターゲットにした白石容疑者は、どのような手口で女性を誘い出したのか。
連絡をとりあった15歳の少女の新証言からその実態が明らかになってきた。
前代未聞の事件の真相は?そして容疑者の動機は?捜査の最新情報をまじえて検証する。
定食屋で食事していたら、上記の内容がクローズアップ現代で放送されていた。
容疑者の目的は金銭や性的暴行など様々取りざたされているが、まだまだ不明な部分も多い。
そんな中、容疑者と実際にコンタクトを取って会う寸前までいった15歳の女子高校生と、20代の女性が匿名で証言する場面が番組であった。
15歳の女子高生は、学校、友達関係、バイト、その他もろもろが嫌になり軽い気持ちで自殺希望の旨をツイッターでつぶやいたところ、すぐに容疑者からコンタクトがあったそうだ。
「自殺の方法などを丁寧に返してきて...」と話し、それが却って好感を抱いたらしく、しばらくの間連絡を取り合っていたとのこと。
「家が近かったりしたら会っていたかも」そう話す女子高生は、その世代ならではの移り気な感情というか気持ちというか、結局2週間で容疑者と連絡を取るのをやめ、当初は「30~40%くらいあった」という自殺願望も、薄れてしまったそうだ。
20代の女性も悩みを抱えた中で自殺願望についてほのめかしたところ(SNSかツイッターか分からない)、容疑者からすぐにコンタクトがあり、「本気なの?」と、引き留めるでもなく説教するでもなく、そのやさしさ?が彼女の琴線に触れて、ダイレクトメールでやり取りをするほどまでに親しくなっていったそう。
「10月末に会う」という約束をし、そしてまさにその10月31日に、容疑者は逮捕された。
20代の女性は、「私が10人目の被害者になっていたかもしれない」とつぶやいた姿が印象的だったが。
二人に共通するのは、 "承認欲求" "自己重要感" 表現は何でもいいが、話しを聞いてくれて、適切な言葉を適切なタイミングで発する、 "インスタントな存在" を欲していたということだろう。
顔も性格もバックボーンすら知らない人間を、ネット上のやり取りだけで、「良い人」や「誠実な人」と、思ってしまう人間がおかしいのか、思わせる人間がプロなのか。
クローズアップ現代では、ネットナンパ師なる人間も登場してきて思わず苦笑したが、だが彼等からしても、ネットの発達により以前よりも異性と出会う敷居はかなり下がった、ということらしい。
そこに社会の暗部が宿ることも確かだが、笑うせえるすまんの、「心の寂しい人ばかり」という言葉はいつの時代にも言えることなのかもしれない。
ノイローゼからの脱却
ミャンマーから帰国して、数日経った後、僕はまず、自分自身を奮い立たせるためにすぐにHIV検査の予約を入れることにした。
複数回、検査を受ける事になるのだが、そのうちの初めは、100%の結果が出ることも無い、11月11日に受ける事に。
それは、これまでの自分の性行為に対しての結果を調べるのが目的でもあった。
というのも、ここ近年の日本では、 "いきなりエイズ" という感染例があるらしく、自覚も心当たりも無い中で突然、HIVではなくてエイズを発症してしまうものだ。
知らぬ間にHIVに感染していて、エイズを発症し、気付いた時には手遅れというパターンもあるらしく。
そういうわけで、僕の場合は3週間と1か月、そして2か月検査とまずは検査予約をして保健所で受けていった。
なかでも、3週間と1か月の検査が最も緊張した。
というのも、今の検査方法だと1ヶ月で陽性であればほとんどのケースが陽性の見方が強く、100%にするには3か月待つ必要があるが、それでも気持ちの分でかなり楽になることは間違いない。
1か月検査が完了するまではもだえるような日々を過ごした。
ネット上で様々な書き込みがあるように、それこそ、人生が180度それも全く違う方向に変わることなのだから当然ではある。
保健所でのやり取りは別で書いたのでここでは記さないが、1か月検査の時の結果待ちの際のあの何とも言えない緊張感は凄まじいものがある。
それも、担当者も待たせるものだから「ひょっとしたら...」という思いが結果を見るまではぬぐえないのだ。
結果を伝えられると、安堵で全身の力が抜け、心の奥底から幸福感があふれ出てきた。
人間は、こういう極限の状況にならないと幸せを感じられない面がどうしてもある。
2か月検査を受けたのは2016年の12月21日だったのだが、その時もやはり緊張したものの陰性の結果が出た時は、これで良い年を迎えられる、そう思ったことを覚えている。
二回目の検査を境に、僕はHIVノイローゼから脱却していく訳だが、考えてみるにHIVに感染するのも恐怖だし、そうでなくても、自分自身で重圧をかけてしまって極限状態に陥ってしまうのもなかなかの状況だ、メンタルが弱い僕のような人間だとぺしゃんこになってしまう。
結果を知るのが怖くなって検査にいかない、という選択を取る人もいるだろうし、頭がおかしくなりすぎて自ら命を断ってしまうことにもなり得る可能性だってある。
なぜ、こんなにも追い詰められるかというと、HIVに感染してしまうと、社会から完全に孤立してしまう、と、そう思い込んでいるからだと思う。
この病気が世界で初めて確認されてからというもの、現代は人々にも理解され、医療は発達したとはいえまだまだ感染者が厳しい環境におかれることは変わりない。
ダラスバイヤーズクラブという映画では、主人公のロン・ウッドルーフ(マシュー・マコノヒー)が、主治医である(ジェニファー・ガーナー)との食事で、
「人間にでも戻った気分だ」
と、笑顔で話すシーンがあるが、それはまさに、HIVであること、エイズであることにおける、感染者と非感染者とを分け隔てる象徴的な場面だ。
僕は今回、幸運にもHIVに感染せず、ノイローゼだけで済んだ。
だが一方で、感染の可能性が低いとされる異性間のセックスや、オーラルセックスでも感染報告が挙がっており、逆に感染者との性行為を複数回重ねても感染しなかったケースもあるため、まだまだ謎に包まれている部分は多い。
この病に苦しんでいる人が数多くいる中、明るいニュースが無い訳ではない。
この病が一刻も早く、梅毒のように完治する日が訪れることを願ってやまない。
HIVノイローゼになった時の事
悩みというのは心身ともに支障をきたすものだが、大抵の人間は1年前の自分の悩みは覚えていないものだ。
だが、僕は昨年の今頃、自分が何に悩んで怯えていたのか明確に覚えている。
それはHIVだ。
昨年10月にミャンマーへ渡航し、観光地を周って楽しんだが、僕も男なので当然、夜の遊びも愉しんだ。
その時、ミャンマーで買った女の子とコンドーム無しでセックスをしてしまったのだ。
ミャンマーに到着したその日の夜、早速タクシーに乗り込んでクラブに直行した。
知る人ぞ知る店だがあまりにも有名であり、日本人の客も多いが、知り合いでもなければお互いに口を交わすことはない。
僕はその日で2人の女性と、それぞれ別に夜をともにしたのだが、うち一人とコンドーム無しで事に及んだのだ。
生で行為に及んだ時間は大した時間では無かったし、その後は恐怖が先だって途中でコンドームを装着したものの危険行為であることには変わりはない。
とはいえ、直後は幸福感に包まれて眠りに落ち、翌日の朝、目を覚ました僕を襲ったのは、自分が行った行為への恐怖だ。
今思えば、これまでもブログでも書いているが東南アジアの国でコンドーム無しで性行為に及ぶことがどんな危険性を持つのかほとんど理解しておらず、危険行為をした後に大変なことをしたという思いに駆られ、僕は異国の地で、ひとりでパニックになってしまった。
客観的に見れば「そんなことだけで感染するはずがない」と、一笑に付すようなことなのだろうが、当事者になると、そうも言っていられない。
東南アジアで性風俗サービスを頻繁に利用して楽しんでいる、変態的なブロガーにしても、その多くはちゃんと避妊用具を装着したり最低限のことをして遊んでいるのだ。
(中には "生物学に長けている" と、訳の分からないことを言って生で遊ぶ人もいるが)
ホテルの部屋から一歩も出られず、当然食事も喉を通らず、日本から持ってきたスマートフォンでWIFIを使ってHIVについて一日中調べていた。
「自分はHIVには感染していない」
そういう答えを見つけるために。
ビルマ情報ネットワーク burmainfo.org - ビルマの現状:政治 - 社会 - ミャンマーのHIV/AIDS危機
とにかく情報が多いのと、正しい、かつ新しい情報が無いために同国がどれだけ感染の危険性があるのか分からず恐怖だけが僕を襲った。
こういったブログは数え切れないほどあり、更新が止まってその人がどうなってしまったのか分からないものも存在していて、それも僕の恐怖心に拍車をかけた。
その時点ではHIVに感染した、と、決まったわけではないのに、危険行為を行ったことそのものが自分をパニックにしてしまっていた。
鏡に映った自分を見て、ほんの十数時間前の自分の愚かな行為に、時間を戻して、ストップをかけたい、
"これは夢じゃないのか?"
とか、現実感がない中でひたすら恐怖心だけが自分を襲っていた。
後になって気付いたが、これは紛れもなく、HIVノイローゼというものだ。
"このままでは頭がおかしくなって、とてもではないが日本に帰れなくなる"
今思えば噴飯もので、HIV感染の確率からいえば大したことは無いのだが、その時の自分からしてみれば死ぬことよりも恐ろしかったのだ。
離人症の一歩手前だったと思う。
何とか重い腰を上げて、夕食を食べに行って、それからは少し思考力を戻すことが出来たので、このあとどうするかを考え始めた。
考えたところで異国の地で出来ることなんてあるはずもなく、翌日もやはり頭の中をHIVの恐怖でいっぱいになり夕方までホテルから出られなかった。
それでも、同じホテルに宿泊していた日本人の人にメンタル的に助けてもらって、僕は何とか平常心を少し取り戻すことが出来て日本に帰国した。
帰って来てからも大変だった。
まず、HIVの検査というのは、一定期間を置かないと受けられない。
100%の結果を知りたければ、危険行為から3ヶ月は必要だと言われている。
とてもではないが、そんなに待てない。
ネット上でHIV感染への可能性がある人たちの書き込みを見ても、
3か月なんてとても待てない
2週間で熱が出て扁桃腺が腫れだした
1ヶ月の件さで陰性とはなりましたが、これは100%ですか
とか、とにかく、不安な人たちの書き込みだらけだ。
不安や恐怖で頭がいっぱいになると、起きてもいない事なのに妄想が際限なく大きくなりそれはとどまることを知らない。
僕にしても、
親になんていおう?
会社にはばれないのかな
ばれたら皆どう思うだろう
もう一生、恋人も出来ずに結婚はおろか、子供も出来ない
そんなことばかり頭をよぎり、平日の、9時から夜まで働いて、それを月曜から金曜までこなして、土日は死んだように寝て、つまらない毎日だと、そんな風に思っていた当たり前の日常が、実はどれほどありがたくて、それこそがまさに最高の幸福であると、気付いたのもその時だった。
一生浮かばれなくてもいいから、どうか、HIV陰性であってほしい
陽性だったとしたらそれを受け入れられる準備と、そして自信が全くなかった。
陽性だったとしても今の医療では死なないが、それを公表して生きていく、という選択肢を取れる程自分は強い人間ではないと自覚していた。
どのみち結果はその時点では出ていなかったのだが、こんなことばかり毎日考えていて日常生活にも支障をきたしていたのは確かだった。
ある程度の年齢を過ぎて起業の例は珍しくないようだ
たとえば以下の記事。
聞きなれない会社と業界、そして社長だが、昨年上場している会社だ。
経営者の藤田氏は、39歳の時に会社を起こしている。
そして、ローソン等で見かける薬局で有名なクオール創業者。
全国に534店舗を持つ調剤薬局『クオール』。
高齢化社会において、長寿のみならず、高い「クオリティ オブ ライフ」(=生活の質、頭文字はQOL)を提供することを目的としているため「QOL」を元に「クオール」の社名を持つ。
'92年に50歳で創業し、20年かけ、'12年に東証一部上場を果たした中村勝社長(72歳)に聞いた。
50を過ぎて起業し、上場までこぎ着けた、というのはレアケースなのかもしれないが、いずれにしろ凄い。
そして先日も書いた、加藤廣氏。
あまりないケースだから上記のようにニュースになるのかというと、決してそんなことは無くて、僕の周りの知人でも、42歳で手元に30万円しかないのに塾を開業した人とか、飲食店を出して10億円規模に育てたとか、ブログにもこれまで書いてきたが、世間的には若くない年齢で起業した例は意外と多いと個人的には思う。
しかも、僕の知っているケースについて言えば、経済的には決して恵まれた人たちでは無かったし、学歴が高卒の人もいた。
こうして考えてみると、「もう年齢を重ねすぎているから」とか、「自分には何もないから、金も無いから」だとか、そういったことは挑戦する際のハードルには必ずしもならないものだ、ということが分かる。
チャンスはある。
諦めなければやはりチャンスはあるものだ。
ブログに書いて発信しているようで、実は自分自身にも言い聞かせていることだ。
「決してレアケースなどではないんだと、自分にもできるはずなんだ」と。
信長の棺で功成り名を遂げた加藤氏の人生観
友人からURLが送られていて、上記の加藤氏の記事を読んだ。
加藤氏は東大を卒業していて作家として活躍しているものの、その名を知られるようになったのはデビュー作である "信長の棺" を発表してから。
60歳を過ぎて小説家となる準備を始め、10年かけ、従って70歳を越えてから本を書き上げたようだが、その本が話題となった当時は、遅咲きの作家としても注目を集めた。
40からは投資をして50代でそれを回収する
新しい人脈を作るために一流の店にも通った
他にも色々と実行したようだが、当たり前だが突然成功したのではなくして見えないところで地道なことをやっていてそれが結果に繋がってもいる。
自己投資
これも加藤氏が挙げる重要要素。
株式投資やFX、その他の投資よりも自分自身への投資の方が最も確実で回収する額も大きい、という考え方が確かにあって、そのようなやり方を地でいく人なのだろう。
Pan; 50歳からの個人起業でもう一花咲かせたいときに読む本
先日ブログでも紹介したが、上記の著書には50歳からの一花を咲かせるために人脈作りはかかせない、ということがやはり記されていて、一月に100人と名刺交換をすることを目標にしただとか、とにかく動き出すこと、その事を強く書いている。
◆もう一花は、誰にでも咲かせられます
私が独立した当初、上場企業の社長の平均年収は5000万円ほどでした。
コンサルタントになった以上、その倍くらいは稼げるコンサルタントにならないと、クライアント(社長)は私の言うことを聞かないんじゃないかなと思い、私は年収1億円を目標にしました。
そういう夢のような話から始まったのですが、それが現実になりました。
年収1億円は少し現実離れしているかもしれませんが、年収1000万円や2000万円は夢のレベルの話ではありません。
例えば、70歳からの起業でさえ、年収1000万円は可能だと信じています。
誰にでもできる普通のことを、緊張感を持って、確実にこなすだけで、たどりつけるステージです。
これは、「50歳からの個人起業でもう一花咲かせたいときに読む本」の著者の白川氏の言葉だが、実際、加藤氏も似たようなやり方でベストセラーを飛ばし、年収1,000万円どころではない結果をもたらしている。
何かを成す時に年齢を気にする必要など無いのだろう。
給料は評価
給料。
サラリーマンでいる限りはこの呪縛から解き放たれることは無い。
大企業は給料が上がるのは遅いが、スタート時点で割と高い水準であることが多い。
ボーナスも手厚いし、よっぽどのことが無ければ殆ど下がらない。
一方で中小企業。
スタート時点から給与が低いことは当たり前だし、その上昇率に関しても、書面に「年一回」と記載があったとしても
経営者の鶴の一声で多くの事が決定されるから、不公平感が大企業よりは出やすい。
となると、給与の交渉は必然的に重要事項となるが。
考えてみれば交渉といった類のことは殆ど経験することが無く、特に、僕のような地方在住の地域社会のきずなを大切にし
衝突を避けるような環境だと、金の話はかなり言いづらい。
言いづらくて仕方がないが、人生と生活がかかっているので黙ってもいられない。
表題の通り、給料=評価 なのだが、どのくらいの仕事をしたのでこれくらいの報酬を、という考え方はかなり難しい。
よく言われるのは、会社は慈善事業ではないため利益を上げないと給料もない、だから業績連動は当たり前、という風潮についてだが、
もともと給料というのは会社の売上とは関係なく、労働者の時間の切り売りや生産性への対価として支払われるべきものであり
売上高の上下は幹部クラスの役割なので、業績連動性にするのは本来は幹部クラスのみで良い。
そうはいっても、とにかく給料の交渉事はとにかくやりづらい。
中小企業であれば相手は社長、大企業であれば直属の上司や人事になり、相手によって話し方を変える必要があるが、いずれにしても切り出しづらい。
金は命よりも重い
そう考えている人間がいる中で、本来は労働力としての対価である給与はかなり、神経質になって考えられるべき点であるものの、中小企業等はその意識がかなり低いので
他人の給与がどうだろうと関係ない、組織側から「あなたの給料は労働に見合っていないのでもっと待遇を良くします」とは決して言わない。
大企業だと全社員の管理が必要だから自動的に給与が上がるが、中小企業だと交渉しないと上がらないことの方が断然多い。
そうなると、自分の実力やスキル、そして実績も大事になってくるが、同じくらい大事なのが交渉の際のコミュニケーションとなる。
ストレートに理論的に言うと、冷たい感じがして相手も感情的になるし、遠回しにいっても通じない、本当にムカつくくらいに通じない。
今の会社に感謝していることを伝えつつも、現労働内容と給与が見合っていないことを下手に出ながら上手に言っていくという、何とも下らない能力が求められるのだ。
雇われの哀しいところだ、給与の話をすると惨憺たる気分になる。
思考と過去の記憶の処理
何か物事を決断した後に失敗したと過去を振り返ったり、思い悩んでも仕方のない記憶をいつまでも引っ張り出して考えこんでしまったりと。
人生において大事なことはどんな状況であれ前進することではあるが、頭の中を負のエネルギーが占領してしまうと、それにしばられて身動きが出来なくなってしまう。
そうすると、せっかく良い変化を起こす機会に恵まれてもそのチャンスをいかせずに終わってしまうことにもつながる。
僕自身、最近またそのような心境になってしまいクヨクヨしていると、友人から以下のコマ漫画が 送られてきた。
早速すぐにメモを取ったり、話を聞いてくれる友人に一方的に話したり、そういったことをやってみた。
大きな変化は特に感じないが、恐怖や悩みに縛られて身動きが取れない、という状況からは抜け出すことは出来た。
それだけでも大きな一歩を踏み出したことにはなるが、下手の考え休むに似たりということわざがあるように、下らない事を考える暇があったら、一つでも具体的な行動をとる、ということがどれだけ重要な意味を持つのか実感させられる。
行動することでしか人生には変化を興せないので、行動にストップをかけるような思考については、様々な手法で追い出したり別の発想を取り入れるようにしたりと、とにかく負のエネルギーに頭を占領されないように対策を取る必要がある。
「人間はその人が考えているようになる」とかなんとか様々な表現があるが、これはやはり正しいと言わざるを得ない。