HIVノイローゼになった時の事
悩みというのは心身ともに支障をきたすものだが、大抵の人間は1年前の自分の悩みは覚えていないものだ。
だが、僕は昨年の今頃、自分が何に悩んで怯えていたのか明確に覚えている。
それはHIVだ。
昨年10月にミャンマーへ渡航し、観光地を周って楽しんだが、僕も男なので当然、夜の遊びも愉しんだ。
その時、ミャンマーで買った女の子とコンドーム無しでセックスをしてしまったのだ。
ミャンマーに到着したその日の夜、早速タクシーに乗り込んでクラブに直行した。
知る人ぞ知る店だがあまりにも有名であり、日本人の客も多いが、知り合いでもなければお互いに口を交わすことはない。
僕はその日で2人の女性と、それぞれ別に夜をともにしたのだが、うち一人とコンドーム無しで事に及んだのだ。
生で行為に及んだ時間は大した時間では無かったし、その後は恐怖が先だって途中でコンドームを装着したものの危険行為であることには変わりはない。
とはいえ、直後は幸福感に包まれて眠りに落ち、翌日の朝、目を覚ました僕を襲ったのは、自分が行った行為への恐怖だ。
今思えば、これまでもブログでも書いているが東南アジアの国でコンドーム無しで性行為に及ぶことがどんな危険性を持つのかほとんど理解しておらず、危険行為をした後に大変なことをしたという思いに駆られ、僕は異国の地で、ひとりでパニックになってしまった。
客観的に見れば「そんなことだけで感染するはずがない」と、一笑に付すようなことなのだろうが、当事者になると、そうも言っていられない。
東南アジアで性風俗サービスを頻繁に利用して楽しんでいる、変態的なブロガーにしても、その多くはちゃんと避妊用具を装着したり最低限のことをして遊んでいるのだ。
(中には "生物学に長けている" と、訳の分からないことを言って生で遊ぶ人もいるが)
ホテルの部屋から一歩も出られず、当然食事も喉を通らず、日本から持ってきたスマートフォンでWIFIを使ってHIVについて一日中調べていた。
「自分はHIVには感染していない」
そういう答えを見つけるために。
ビルマ情報ネットワーク burmainfo.org - ビルマの現状:政治 - 社会 - ミャンマーのHIV/AIDS危機
とにかく情報が多いのと、正しい、かつ新しい情報が無いために同国がどれだけ感染の危険性があるのか分からず恐怖だけが僕を襲った。
こういったブログは数え切れないほどあり、更新が止まってその人がどうなってしまったのか分からないものも存在していて、それも僕の恐怖心に拍車をかけた。
その時点ではHIVに感染した、と、決まったわけではないのに、危険行為を行ったことそのものが自分をパニックにしてしまっていた。
鏡に映った自分を見て、ほんの十数時間前の自分の愚かな行為に、時間を戻して、ストップをかけたい、
"これは夢じゃないのか?"
とか、現実感がない中でひたすら恐怖心だけが自分を襲っていた。
後になって気付いたが、これは紛れもなく、HIVノイローゼというものだ。
"このままでは頭がおかしくなって、とてもではないが日本に帰れなくなる"
今思えば噴飯もので、HIV感染の確率からいえば大したことは無いのだが、その時の自分からしてみれば死ぬことよりも恐ろしかったのだ。
離人症の一歩手前だったと思う。
何とか重い腰を上げて、夕食を食べに行って、それからは少し思考力を戻すことが出来たので、このあとどうするかを考え始めた。
考えたところで異国の地で出来ることなんてあるはずもなく、翌日もやはり頭の中をHIVの恐怖でいっぱいになり夕方までホテルから出られなかった。
それでも、同じホテルに宿泊していた日本人の人にメンタル的に助けてもらって、僕は何とか平常心を少し取り戻すことが出来て日本に帰国した。
帰って来てからも大変だった。
まず、HIVの検査というのは、一定期間を置かないと受けられない。
100%の結果を知りたければ、危険行為から3ヶ月は必要だと言われている。
とてもではないが、そんなに待てない。
ネット上でHIV感染への可能性がある人たちの書き込みを見ても、
3か月なんてとても待てない
2週間で熱が出て扁桃腺が腫れだした
1ヶ月の件さで陰性とはなりましたが、これは100%ですか
とか、とにかく、不安な人たちの書き込みだらけだ。
不安や恐怖で頭がいっぱいになると、起きてもいない事なのに妄想が際限なく大きくなりそれはとどまることを知らない。
僕にしても、
親になんていおう?
会社にはばれないのかな
ばれたら皆どう思うだろう
もう一生、恋人も出来ずに結婚はおろか、子供も出来ない
そんなことばかり頭をよぎり、平日の、9時から夜まで働いて、それを月曜から金曜までこなして、土日は死んだように寝て、つまらない毎日だと、そんな風に思っていた当たり前の日常が、実はどれほどありがたくて、それこそがまさに最高の幸福であると、気付いたのもその時だった。
一生浮かばれなくてもいいから、どうか、HIV陰性であってほしい
陽性だったとしたらそれを受け入れられる準備と、そして自信が全くなかった。
陽性だったとしても今の医療では死なないが、それを公表して生きていく、という選択肢を取れる程自分は強い人間ではないと自覚していた。
どのみち結果はその時点では出ていなかったのだが、こんなことばかり毎日考えていて日常生活にも支障をきたしていたのは確かだった。
ある程度の年齢を過ぎて起業の例は珍しくないようだ
たとえば以下の記事。
聞きなれない会社と業界、そして社長だが、昨年上場している会社だ。
経営者の藤田氏は、39歳の時に会社を起こしている。
そして、ローソン等で見かける薬局で有名なクオール創業者。
全国に534店舗を持つ調剤薬局『クオール』。
高齢化社会において、長寿のみならず、高い「クオリティ オブ ライフ」(=生活の質、頭文字はQOL)を提供することを目的としているため「QOL」を元に「クオール」の社名を持つ。
'92年に50歳で創業し、20年かけ、'12年に東証一部上場を果たした中村勝社長(72歳)に聞いた。
50を過ぎて起業し、上場までこぎ着けた、というのはレアケースなのかもしれないが、いずれにしろ凄い。
そして先日も書いた、加藤廣氏。
あまりないケースだから上記のようにニュースになるのかというと、決してそんなことは無くて、僕の周りの知人でも、42歳で手元に30万円しかないのに塾を開業した人とか、飲食店を出して10億円規模に育てたとか、ブログにもこれまで書いてきたが、世間的には若くない年齢で起業した例は意外と多いと個人的には思う。
しかも、僕の知っているケースについて言えば、経済的には決して恵まれた人たちでは無かったし、学歴が高卒の人もいた。
こうして考えてみると、「もう年齢を重ねすぎているから」とか、「自分には何もないから、金も無いから」だとか、そういったことは挑戦する際のハードルには必ずしもならないものだ、ということが分かる。
チャンスはある。
諦めなければやはりチャンスはあるものだ。
ブログに書いて発信しているようで、実は自分自身にも言い聞かせていることだ。
「決してレアケースなどではないんだと、自分にもできるはずなんだ」と。
信長の棺で功成り名を遂げた加藤氏の人生観
友人からURLが送られていて、上記の加藤氏の記事を読んだ。
加藤氏は東大を卒業していて作家として活躍しているものの、その名を知られるようになったのはデビュー作である "信長の棺" を発表してから。
60歳を過ぎて小説家となる準備を始め、10年かけ、従って70歳を越えてから本を書き上げたようだが、その本が話題となった当時は、遅咲きの作家としても注目を集めた。
40からは投資をして50代でそれを回収する
新しい人脈を作るために一流の店にも通った
他にも色々と実行したようだが、当たり前だが突然成功したのではなくして見えないところで地道なことをやっていてそれが結果に繋がってもいる。
自己投資
これも加藤氏が挙げる重要要素。
株式投資やFX、その他の投資よりも自分自身への投資の方が最も確実で回収する額も大きい、という考え方が確かにあって、そのようなやり方を地でいく人なのだろう。
Pan; 50歳からの個人起業でもう一花咲かせたいときに読む本
先日ブログでも紹介したが、上記の著書には50歳からの一花を咲かせるために人脈作りはかかせない、ということがやはり記されていて、一月に100人と名刺交換をすることを目標にしただとか、とにかく動き出すこと、その事を強く書いている。
◆もう一花は、誰にでも咲かせられます
私が独立した当初、上場企業の社長の平均年収は5000万円ほどでした。
コンサルタントになった以上、その倍くらいは稼げるコンサルタントにならないと、クライアント(社長)は私の言うことを聞かないんじゃないかなと思い、私は年収1億円を目標にしました。
そういう夢のような話から始まったのですが、それが現実になりました。
年収1億円は少し現実離れしているかもしれませんが、年収1000万円や2000万円は夢のレベルの話ではありません。
例えば、70歳からの起業でさえ、年収1000万円は可能だと信じています。
誰にでもできる普通のことを、緊張感を持って、確実にこなすだけで、たどりつけるステージです。
これは、「50歳からの個人起業でもう一花咲かせたいときに読む本」の著者の白川氏の言葉だが、実際、加藤氏も似たようなやり方でベストセラーを飛ばし、年収1,000万円どころではない結果をもたらしている。
何かを成す時に年齢を気にする必要など無いのだろう。
給料は評価
給料。
サラリーマンでいる限りはこの呪縛から解き放たれることは無い。
大企業は給料が上がるのは遅いが、スタート時点で割と高い水準であることが多い。
ボーナスも手厚いし、よっぽどのことが無ければ殆ど下がらない。
一方で中小企業。
スタート時点から給与が低いことは当たり前だし、その上昇率に関しても、書面に「年一回」と記載があったとしても
経営者の鶴の一声で多くの事が決定されるから、不公平感が大企業よりは出やすい。
となると、給与の交渉は必然的に重要事項となるが。
考えてみれば交渉といった類のことは殆ど経験することが無く、特に、僕のような地方在住の地域社会のきずなを大切にし
衝突を避けるような環境だと、金の話はかなり言いづらい。
言いづらくて仕方がないが、人生と生活がかかっているので黙ってもいられない。
表題の通り、給料=評価 なのだが、どのくらいの仕事をしたのでこれくらいの報酬を、という考え方はかなり難しい。
よく言われるのは、会社は慈善事業ではないため利益を上げないと給料もない、だから業績連動は当たり前、という風潮についてだが、
もともと給料というのは会社の売上とは関係なく、労働者の時間の切り売りや生産性への対価として支払われるべきものであり
売上高の上下は幹部クラスの役割なので、業績連動性にするのは本来は幹部クラスのみで良い。
そうはいっても、とにかく給料の交渉事はとにかくやりづらい。
中小企業であれば相手は社長、大企業であれば直属の上司や人事になり、相手によって話し方を変える必要があるが、いずれにしても切り出しづらい。
金は命よりも重い
そう考えている人間がいる中で、本来は労働力としての対価である給与はかなり、神経質になって考えられるべき点であるものの、中小企業等はその意識がかなり低いので
他人の給与がどうだろうと関係ない、組織側から「あなたの給料は労働に見合っていないのでもっと待遇を良くします」とは決して言わない。
大企業だと全社員の管理が必要だから自動的に給与が上がるが、中小企業だと交渉しないと上がらないことの方が断然多い。
そうなると、自分の実力やスキル、そして実績も大事になってくるが、同じくらい大事なのが交渉の際のコミュニケーションとなる。
ストレートに理論的に言うと、冷たい感じがして相手も感情的になるし、遠回しにいっても通じない、本当にムカつくくらいに通じない。
今の会社に感謝していることを伝えつつも、現労働内容と給与が見合っていないことを下手に出ながら上手に言っていくという、何とも下らない能力が求められるのだ。
雇われの哀しいところだ、給与の話をすると惨憺たる気分になる。
思考と過去の記憶の処理
何か物事を決断した後に失敗したと過去を振り返ったり、思い悩んでも仕方のない記憶をいつまでも引っ張り出して考えこんでしまったりと。
人生において大事なことはどんな状況であれ前進することではあるが、頭の中を負のエネルギーが占領してしまうと、それにしばられて身動きが出来なくなってしまう。
そうすると、せっかく良い変化を起こす機会に恵まれてもそのチャンスをいかせずに終わってしまうことにもつながる。
僕自身、最近またそのような心境になってしまいクヨクヨしていると、友人から以下のコマ漫画が 送られてきた。
早速すぐにメモを取ったり、話を聞いてくれる友人に一方的に話したり、そういったことをやってみた。
大きな変化は特に感じないが、恐怖や悩みに縛られて身動きが取れない、という状況からは抜け出すことは出来た。
それだけでも大きな一歩を踏み出したことにはなるが、下手の考え休むに似たりということわざがあるように、下らない事を考える暇があったら、一つでも具体的な行動をとる、ということがどれだけ重要な意味を持つのか実感させられる。
行動することでしか人生には変化を興せないので、行動にストップをかけるような思考については、様々な手法で追い出したり別の発想を取り入れるようにしたりと、とにかく負のエネルギーに頭を占領されないように対策を取る必要がある。
「人間はその人が考えているようになる」とかなんとか様々な表現があるが、これはやはり正しいと言わざるを得ない。
365日記事を書き続けたところで
このブログを開始して365日経過した。
昨年開始する際に、
・1日1記事書く
・それを1年間続ける
とだけ決めごとをして、それ以外は縛りを設けずに、続けていく中で何かしらのビジネス(金儲け)に繋がればという意図も踏まえスタートした。
気付いた点で大きなものとしては、当たり前のことだが、テーマは絞った方が良い。
例えば、サラリーマン投資家、セミリタイアのブログ。
そのための手法だったりサラリーマンからフリーになる際の流れやお金の得る方法等、極めて具体的かつ実用的な内容になっている。
以下は、マンション管理士として独立した社長の、その事業内容と時事ネタその他を記したブログ。
今はマンションも長期修繕の問題なども浮上しており、マンション管理士の重要性も高まってきている。
そういった疑問点を独自の目線で交えながら解説し、それが会社としてのPR、また経営者としての自己紹介の役割を果たしていて、きちんとブログとして成り立っている。
タイの刑務所から出所した竹澤氏でさえ、「タイ刑務所に収監された元受刑者が帰国した...」といった、アンダーグラウンドな世界であるものの極めてシンプルなブログテーマに絞り、不定期に更新していてそれなりに読める。
それに比べて僕のブログは落書きだ、落書きに過ぎない。
ちなみに本ブログの最近のアクセス数は以下の通り。
100いくことはあまりない、100ですらいかない。
一時、なぜか一日で1000アクセスになったことがあったが、はてなブログのPRO仕様にしていないので、詳しいアクセス解析が出来ずにどの記事に何の需要があって、どこからアクセスしてきたのかも特定できなかった。
分かる範囲の現時点でのアクセスは上記の様になり、記事を書きすぎているので、僕自身、「あれ、そんな記事書いたっけ」というものもあり、思い出せない。
そして、繰り返すようだがPRO使用でないこともありブログも非常に読みづらい。
そうでなくても、僕は、読み手側のために読みやすくしようという気持ちに欠けているので、それも恐らく低調な理由の一つだろう。
・ブログのテーマを絞る
・自己紹介をする(顔出しなど含め)
・読みやすくする
・PRO仕様にする
・アクセス解析をする
ポイントを簡単に記すとこんなところだろうか。
あとはどこからきたのか分からないが読者が6ついていて、本当はその人たちの記事を読んで★とかをつけなければならないのだろうがそれも面倒でやっていない。
ツイッターとかはフォローしないとフォローしてくれないという日本特有の村社会的な
一面があるようなので、もしかするとブログも相手のものを読んで、きちんとコメントして、何やらかにやらして、と、そういうことを熱心に行う必要があるかもしれない。
とはいえ、爆発的に面白いブログで急激にアクセス数とファンの数を増やして一気に有名になるケースもあるので、ルールなんてあるようでない。
そういう意味ではあまり何も考えずに書いてもいいかもしれない。
だが、ここまでつらつらと書いてきたが、僕のブログは満足のいくレベルには達していないので、上記の事は恐らく殆ど参考にならないだろう。
タイの日常が戻ったようだ
タイ観光局のホームページがモノトーンから色鮮やかな見た目に変わっている。
思えば昨年このブログを開始して、1年間は何があっても毎日書き続けよう、そうして始めた当初、タイ国王の訃報があって、それから大分月日が流れたという事になる。
明日でこのブログも365日を数える。